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今日の日記 | 蝦夷管領 | 歴史の背景など | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蝦夷管領(えぞかんれい)は、鎌倉時代に蝦夷関連の諸職を統括したと推定されている役職である。なお蝦夷管領の語は南北朝時代以降に見える名称であり、鎌倉時代には蝦夷沙汰職(えぞさたしき)、蝦夷代官(えぞだいかん)と呼ばれた[1]。鎌倉幕府草創期より蝦夷地は重犯罪人の流刑地になっており、蝦夷管領は流人達の送致、監視が主な役目といわれている。また、蝦夷との交易にも関与していたと推定されている。 建保5年(1217年)、時の執権・北条義時が陸奥守となったころ、安藤堯秀を蝦夷管領に任命したのがはじまりといわれているが、安藤氏の系図には異伝が多く詳しいことは分かっていない。 この職は安藤氏の世職で、政務を行う役所・営所は津軽の十三湊にあったという。しかし、諸史料によると安藤氏は北条得宗家の代官として配置されたとなっているため、実際には得宗家のための役職であって、北条家の委託を受けた安藤氏が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納していたと推定されている。 鎌倉幕府滅亡後、安藤氏は安東氏と姓の表記を変え、「東海将軍」「日の本将軍」を名乗り蝦夷管領家の権威権限を実際に行使するかたちで蝦夷地を統治していたことが分かっているが[2]、この安東氏とはまた別に安藤氏の子孫を名乗る家系もあり、その詳細は今後の研究に委ねられている。 出典関連項目松前藩(まつまえはん)は、松前島(夷島)松前(渡島国津軽郡を経て現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年(1872年)、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部、渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった[1]。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。 藩史17世紀まで松前藩の史書『新羅之記録』によると、始祖は室町時代の武田信広(甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる)である。信広は安東政季から上国守護に任ぜられた蠣崎季繁の後継者となり蠣崎氏を名乗り、現在の渡島半島の南部に地位を築いたという。蠣崎季広の時には、主家安東舜季の主導のもと東地のチコモタイン及び西地のハシタインのアイヌと和睦し(夷狄の商舶往還の法度)[2]、蝦夷地支配の基礎を固め、その子である松前慶広の時代に豊臣秀吉に直接臣従することで安東氏の支配を離れ、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められた。江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが、5代将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になる。さらに、享保4年(1719年)から1万石格の柳間詰めの大名となった。 当時の蝦夷地では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格に過ぎなかった。慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていたが、次第に取り締まりが厳しくなった。 松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であったが、ニシンが不漁になったため蝦夷地への出稼ぎが広まった。城下町の松前は天保4年(1833年)までに人口1万人を超える都市となり、繁栄した。 藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、寛文9年(1669年)にシャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを挫折させた。 檜山奉行と林業延宝元年(1673年)に江差に檜山を開き、檜山奉行を置いた[3]。檜山は、厚澤部川流域から上國天の川流域の森林地帯であり、ヒバをヒノキと称した地域の俗称そのままに檜山とされた。檜山奉行所は、この森林地帯を7箇所に区分し、同年2月に樹皮剥ぎや稚木伐採を禁止し、また野火を放つことを禁じる等の天然林の保護策を定めた[3]。また、アスナロ等の材木を造船や他藩との交易物として活用する一方で、伐採を出願制としたことから他藩からも山師が訪れるようになり、こうした山師による伐採の運上金は藩の財政の一端を担った。 しかし、元禄8年(1695年)4月に檜山で山火事が発生し、過半数の樹木が消失したことから、かねてから他の地域で伐採を請願していた山師の飛騨屋久兵衛からの訴えが認められ、池尻別・沙流久寿里(釧路)厚岸・夕張・石狩等におけるエゾマツの伐採が許可された[3]。山師により伐採されたエゾマツは、石狩川等の川を下って石狩川口から本島へ船で運ばれ、江戸や大阪でその材質の高さから障子や曲物へと加工され流通した。 18世紀18世紀前半から、松前藩の家臣は交易権を商人に与えて運上金を得るようになり、場所請負制が広まった。18世紀後半には藩主の直営地も場所請負となった。請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させた。これにより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られた。商人の経営によって、鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある熊皮、鷹羽などの希少特産物を圧するようになった。 生活物資の中心となる米は、対岸の弘前藩から独占的な供給を受ける取り決めが結ばれていたが、1782年から深刻化した天明の大飢饉の期間は輸送が途絶、大坂からの回送船による米の輸送が行われ、ますます西日本側との結びつきを深めてゆく。 漁場の拡大に伴い、日本人は東蝦夷地にも入り込んだが、その地のアイヌは自立的で、藩の支配は強くなかった。この頃には蝦夷地全体で商人によるアイヌ使役がしだいに過酷になっていた。東蝦夷では寛政元年(1789年)、請負商人がアイヌ首長を毒殺したとの噂からアイヌが蜂起し、クナシリ・メナシの戦いへと至った。 18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は、天明5年(1785年)から調査の人員をしばしば派遣し、寛政11年(1799年)に藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち1月16日に東蝦夷地の浦川(現在の浦河町)から知床半島までを7年間上知することを決め、8月12日には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に5千石を与え、各年に若干の金を給付することとした。 19世紀享和2年(1802年)5月24日に7年間に及ぶ上知の期限を迎えたが、蝦夷地の返還は行われなかった。文化4年(1807年)2月22日に西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封となった。なお、これ以前に前藩主であった松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられた[4]。 文政4年(1821年)12月7日に、幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。藩を挙げての幕閣重鎮に対する表裏に渡る働きかけ、も確認されている。これと同時に松前藩は北方警備の役割を再度担わされることにもなった。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前福山城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させた。 日米和親条約によって箱館が開港されると、幕府は再度蝦夷地の直轄化を目論み、松前崇広の代の安政2年(1855年)2月22日に乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地をふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになった。代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根に合わせて3万石が与えられ、出羽国村山郡尾花沢1万4千石が込高として預かり地とされた。合計で4万石余に加えて、別途手当金として年1万8千両が支給された。しかしこれらより余程に儲かる、蝦夷地の交易権を失ったために、財政的には以前より厳しいものとなった。元治元年(1864年)に松前崇広が老中に就任すると、乙部から熊石まで8ケ村が松前藩に戻された。しかし、手当金700両が削減された。領地の上知や新興の箱館の繁栄の影響もあり、松前藩の経済状態は、藩士も松前城下の民も苦しいものとなった。 館藩明治2年(1869年)6月24日、14代藩主松前修広は版籍奉還を願い出て許され、館藩知事に任じられた。同年、北海道11国86郡が置かれている。 明治4年7月14日(1871年8月29日) に廃藩置県で館県になるまで、館藩は2年間存続した。藩名の由来は、朝廷から西部厚沢部村の館に新城を建築することを許されたことによる。政庁については、完成前に箱館戦争が始まったため、当初は以前と同じく福山城にあった。松前氏が戊辰戦争の中でも、東北戦争の時点では奥羽越列藩同盟に参加していたが、勤王派の正議隊(正義隊)が藩政を掌握して新政府側に寝返った。新築の館城に移って館藩として、箱館戦争で旧幕府軍と戦った。戦後処理では前述の経緯により、旧幕府軍に協力した者を逮捕及び裁判の上処分した。処分された者の数は町人、武士問わず90余名、町内引廻しのうえ斬首されたものは19名[5]。また、明治2年に口番所(松前・江差)が廃止され、代わりに函館、寿都らに海官所が設置されたため、口番所の口収益に依存していた館藩の財政は深刻な打撃を受けた。明治3年12月には館藩の訴えにより、松前、江差の両海官所とも復したものの、インフレによって財政難は解決されず、さらにオランダ商会、藩内の商人への借金及び藩札の大量発行を行った。政治的にも藩政を掌握した正義隊と反対派が対立し、反対派は開拓使に正義隊への非難を訴えるなど不安定な状態が続き、廃藩に至るまで解消されることはなかった。 館県[編集]明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により館藩の旧領には館県が置かれた。館県の範囲は、渡島国に属する爾志郡・檜山郡・津軽郡・福島郡の4郡であったが、同年9月、館県は道外の弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県と合併、弘前県(後の青森県)の一部となり消滅した。 歴代藩主松前家
居城幕末の領地明治維新後に伊達郡31村(旧棚倉藩領11村、幕府領20村)が加わった。 ※当初は蝦夷地(北州)全域が松前藩の所領であったが、和人地の一部を除き上知され、天領となった地域には箱館奉行が置かれた。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。江戸以外の幕府直轄領(御料(幕領・天領))のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務をとりあつかった奉行。役方に分類される。遠国奉行首座は長崎奉行。 概要役職遠国奉行は、幕末時点では京都町奉行・大坂町奉行・駿府町奉行の各町奉行と、長崎奉行・伏見奉行・山田奉行・日光奉行・奈良奉行・堺奉行・佐渡奉行・浦賀奉行・下田奉行・新潟奉行・箱館奉行・神奈川奉行・兵庫奉行の各奉行の総称である。 老中の支配下で、芙蓉間詰諸大夫役。役高は1,000石から2,000石と任地により異なり、役料が支給されることもあった。 遠国奉行の管轄地を奉行知行所と呼ぶ。 明治政府慶応4年(1868年)に江戸幕府が倒れると、同年1月から4月にかけて、明治政府によって長崎・京都・大阪・佐渡・新潟・箱館・神奈川・兵庫に裁判所が置かれた。各裁判所は5月から9月にかけて府に改組された(ただし佐渡・兵庫は県)。なお山田・奈良には裁判所を経ずに度会府・奈良県が設置された。また江戸には7月に江戸府が置かれ、9月に東京府に改称している。 明治2年(1869年)7月17日、府の名称は東京府・大阪府・京都府に限るとした太政官布告により、長崎府・度会府・奈良府(奈良県より改称)・新潟府(越後府より改称)・箱館府・神奈川府は県に改称された。そのうち長崎・京都・大阪・奈良(一時的に堺県に編入)・新潟・神奈川・兵庫の各府県は現在も存続しており、遠国奉行が事実上の前身に当たると言える。 遠国奉行の一覧松前奉行までは幕末時点での序列順。後身は管轄地域を基準としたものであり、行政機関としての後身ではないものもある。
駿府町奉行駿府の町政の他、駿河国内の天領の、主に公事方を扱った。駿府の在勤だが、駿府城代ではなく老中の支配に属した。駿府城代と協議して駿府を通行する諸大名諸士の密察、駿河や伊豆の裁判仕置、久能山東照宮の警衛を役務とした。 定員は2名で横内組町奉行と大手町奉行があった。慶長12年(1607年)に設けられて2人が任命されるが、元和2年(1616年)以後しばらく廃職となる。寛永9年(1632年)4月に再置されてから、元禄15年(1702年)9月まで2人体制を継続した。元禄15年(1702年)9月に1人役と改め、横内組を廃止する事となった。役高1,000石・役料は500俵。慶応3年(1867年)には役金1,500両と決められた。城中では芙蓉の間席。配下は与力8騎・同心60人・水主50人。 下田奉行・浦賀奉行下田奉行は、伊豆下田の港の警備、船舶の監督、貨物検査、当地の民政が役務であった。1,000石高の職で役料が1,000俵支給された。定員は1、2名。 当初元和2年(1616年)に伊豆下田に置かれていたが、享保5年(1720年)には江戸湾内の経済活動の活発化に伴って相模浦賀に移転し、当時の下田奉行・堀隠岐守利雄が初代浦賀奉行となる。この時は佐渡奉行の次席、役料は500俵だった。浦賀奉行の定員は時代によって変わった。 浦賀奉行の役務は、江戸湾に入る船舶の監視・積荷の検査・相模や浦賀の民政裁判等を担当した。配下は組頭と与力10騎、同心50人、ただし人数は時代によって変化した。他に、足軽20人、水主頭取11人、足留水主190人がいた。 文化年間になると、日本へ外国船が来航するようになり、浦賀奉行の職務に江戸湾の警備が加わることになった。相模側の警備は、浦賀奉行を中心として、川越藩(非常時には小田原藩も)が援護することとなった。 役高は1,000石で、役料500俵を支給された。嘉永6年(1853年)の黒船来航以後は、重要性が増し、2,000石高となる。慶応3年(1867年)には、従来の足高、役知、役料、役扶持を中止して、役金として1,500両が支給された。 幕末期には外国との交渉の窓口となった。天保13年(1842年)-天保15年(1844年)及び嘉永7年(1854年)-万延元年(1860年)にかけては外国船の来航に備えて下田奉行も再置され、この期間には浦賀・下田の両奉行所が並存していた。主として陸奥会津藩士が赴任した。 浦賀奉行定員数
奈良奉行興福寺・東大寺など南都の大寺院の監視とその門前町(北町・南町)の支配のため設置。南都町奉行とも呼ばれる。老中支配だが、直接には京都所司代の指揮下にあり、その主要任務は春日大社の警衛と神事であった。 慶長18年(1613年)に設置。定員1、2名。役高1,000石で、役料700俵を支給された。奈良に駐在し、配下は与力7騎と同心30人に牢番1人。奉行所は現・奈良女子大学の敷地内に置かれていた。 江戸幕府以前、豊臣政権時代の天正10年(1582年)にも同名の奉行職はあった。 箱館奉行・松前奉行・蝦夷奉行その役務は、蝦夷地の行政や警固(防衛)であった。病人に対する薬や老人・子供に対する御救米の支給(介抱)と撫育政策(オムシャ)をおこない、松前藩が禁じた和語の使用や和装などを解禁・推奨(和風化政策)した。また、奉行治世時代に全蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳(戸籍)が作成されるようになった(江戸時代の日本の人口統計も参照)。そのほか場所請負制を改め直捌とし幕吏立会いで商取引の不正を防止。山丹交易を幕府直営とし、航路や道路など交通網の整備もすすんだほか、奥羽諸藩に出兵を命じて各地に陣屋を築き警固した。 第1期幕領時代(1802年 - 1821年)前期奉行の治世中には寛永通寳鉄銭が広く流通し、高田屋嘉兵衛による択捉航路の開設(北前船も参照)及び近藤重蔵らによる新道開削等がおこなわれ、間宮林蔵らの樺太調査による間宮海峡の確認や、松田伝十郎の山丹交易改革でアイヌの累積債務の支払えない分を肩代わりした。 アダム・ラクスマン来航をはじめとするロシアの南下政策を警戒した幕府は、北辺警固のため松前藩の領地であった東蝦夷地(北海道太平洋岸および北方領土や得撫郡域)を寛政11年(1799年)に仮上知。そして、享和2年(1802年)2月、永久上知の上箱館に蝦夷奉行が設置され、戸川安論・羽太正養の2名が任命され、うち1名が1年交代で箱館に駐在した。同年5月箱館奉行に改称する。文化元年(1804年)宇須岸館(別名・河野館または箱館)跡(現在の元町公園)に奉行所を置き、これに伴い、同地にあった蝦夷地総社・函館八幡宮を会所町(現八幡坂の上)に遷座した。文化2年(1805年)2月に斜里山道(斜里越)を開削した八王子千人隊千人頭原胤敦が箱館奉行支配調役に任ぜられた。原胤敦と配下同心は文化5年(1808年)に八王子に戻る。 文化4年(1807年)、文化露寇を機に、和人地及び西蝦夷地(北海道日本海岸とオホーツク海岸および樺太)も上知、箱館奉行を松前奉行と改め、松前に移転した。また、遠山景晋(遠山の金さんの養父)が西蝦夷地検分を行い、最上徳内が8度目の蝦夷地赴任となったのも、第一次幕領期の文化4年ころであった。樺太は、文化6年(1809年)に西蝦夷地から分立し北蝦夷地に改称された。 ロシアの脅威が収まった文政4年(1821年)、和人地及び全蝦夷地を松前氏に還付し松前奉行は廃止された。 第2期幕領時代(1856年 - 1868年)後期幕領期には箱館通宝の発行が行われ、前期同様道路開削も行われた。また蝦夷地で流行する疱瘡対策として土人への種痘なども行った。ちなみに土人とは、「土地の産物」を意味する「土産」と同様、当時「土地の人」や「土地で生まれ育った人」の意味で用いられた言葉で、蝦夷から改称当時の呼称。いまでいう「地元の人」的な意味合いの漢語である。 幕末の箱館開港を機に、乙部村以北と木古内村以東の和人地と全蝦夷地(北州)が再度上知され、安政3年(1856年)再び箱館に箱館奉行が置かれる。開港地箱館における外国人の応対も担当した。定員は2 - 4名で、内1名は江戸詰となる。役高は2,000石で、役料1,500俵、在勤中の手当金700両が支給された。支配組頭に任ぜられた向山源太夫は樺太の調査を行い、その帰途に病死している。このとき配下の松浦武四郎も同行。安政4年(1857年)には、村垣範正が着任、桑田立斎ら種痘の出来る医師が派遣され、アイヌの間で蔓延する天然痘の対策をおこなった。また、村垣は樺太における国境の交渉に備え、日本の行政の北限の確認をおこなっていたが、安政2年(1855年)締結された日露和親条約では、国境は棚上げ先送りとされている。奉行所は、最初は前回同様宇須岸館跡に置かれたが、元治元年(1864年)奉行所を五稜郭へ移転した。このころ、アイヌの呼称が「蝦夷」から「土人」に改称された。 新潟奉行天保14年(1843年)に天領となった新潟周辺の地域を支配するため新設。初代新潟奉行は川村修就。設置の理由は日本海交通の要衝である新潟港の管理であった。その後、開国に当たり新潟が開港地となったため、その重要性が増した。 新潟に駐在し、その民政や、出入船舶の監視、密貿易の取り締まり、海岸警備、海防強化が役務であった。老中支配で、1,000石高、役料1,000俵、慶応3年(1867年)には石高にかかわらず役金2,000両となった。定員1名。 兵庫奉行元治元年(1864年)に小笠原摂津守広業が任じられたのが最初である。翌慶応元年(1865年)に兵庫港が廃止され、兵庫奉行の池野山城守好謙は堺奉行へ転役。慶応3年(1867年)に、兵庫開港となった際に再び設置された。 老中の支配下で、芙蓉の間席。1,000石高、役料現米600石。慶応3年9月には役金3,000両と定められた。慶応4年(明治元年、1868年)の『武鑑』では、2,000石高、役料1,500石と記され、柴田日向守剛中の名が記載されている。配下に支配組頭が付属。 関連項目村請制度(むらうけせいど)とは、日本の近世(主として江戸時代)における制度のひとつで、年貢・諸役を村単位で村全体の責任で納めるようにした制度。村請制(むらうけせい)ともいう。 中世の地下請の伝統を引くもので、近世社会において領主は検地を行い村高を把握し、村落は村単位で年貢が賦課された。領主は村に対して徴税令書である年貢割付状を発し(年貢割付状は儀礼的要素が強く、事前に廻状により通達されるケースもある)、庄屋などの村役人は責任者となり村内から年貢を徴収し、領主に対して納税した。年貢が納入されると領主は村落に対して領収書である年貢皆済目録を発行する。 また、当時の北海道や樺太および北方領土においても、本州以南に準じて郷村制が敷かれていた。松前藩や箱館奉行から、役蝦夷(惣乙名・乙名・脇乙名などの役職[1])に任命された地元アイヌの有力者が、住民を調べ労働力を把握し年貢米の代わりとなる夫役(漁場労働等)への動員や、宗門人別改帳(戸籍)の作製(江戸時代の日本の人口統計)、藩や幕府からの掟書(法律)を住民に伝達するなどの業務をこなした。 村請制度では村の誰かが破産して年貢を出せなくなる事態になると村の他の者がかわりにそれを出さなければならなくなったので、結果として、村の中に破産者を出すまい、我欲にばかり走らず他の人のことも大切にして支え合ってゆこうとする意識もはぐくまれた。日本人の現在の社会性や心情にも影響を及ぼしている[2]。 脚注
蝦夷共和国(えぞきょうわこく)とは、戊辰戦争末期に蝦夷地(北海道)を支配した旧江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」である蝦夷島政府を指す俗称。箱館政権、北海道共和国[1][2]とも。 概説慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定した。慶応4年(1868年)8月19日夜、海軍副総裁榎本武揚は開陽丸を旗艦とする軍艦4隻(開陽、回天、蟠竜、千代田形)と運送船4隻(咸臨、長鯨、神速、美賀保)の8隻の艦隊を率いて蝦夷地の箱館に向かった[3]。途中仙台で会津戦争で敗走した残党などを吸収して、総勢二千数百名となり、10月20日に鷲ノ木に上陸[3]。上陸後、数日で五稜郭を攻略し、箱館を占領した[3](箱館府知事清水谷公考は敗走した)。 12月15日には蝦夷地全島平定の祝賀祭(蝦夷地領有宣言式)が催され、榎本を総裁とする仮政府の樹立を宣言した[3][4]。 明治元年(1868年)10月に榎本が函館入港中の英仏両艦長に明治新政府との仲介を依頼した「榎本武揚等歎願書」によると、榎本は蝦夷地に向かった目的について、徳川家の禄高が70万石に制限されたことによって禄を離れざるを得ない旧幕臣を蝦夷地に入植させ、農林漁業や鉱業などを興すとともに、ロシアの南下に対する北方警備につかせることを画策したと説明している[3]。 性格榎本らは総裁として徳川家の血統を引く者を迎えることを希望していた[3]。一方で榎本は王政復古による「皇国」をあからさまに否定したことはなく、1868年8月の榎本の「檄文」は「王政日新は皇国の幸福、吾輩も亦希望する所なり」と述べつつ「強藩の私意に出で、真正の王政に非ず」と新政府側の諸藩を非難している[3]。 呼称榎本らにより表明された文書に「共和国」の名が現れたことはなく、「共和国」の名は仮政府の周囲の者によって呼ばれるようになったにすぎない[3]。 最初に「共和国(リパブリック)」という表現を使ったのは、1868年11月、英仏軍艦艦長に随行し、榎本と会見した英国公使館書記官アダムズだった。彼が1874年に書いた著書 History of Japan において、箱館政庁を "republic" と紹介し、その後、アダムズの表現に倣う者が大多数となった。 旧幕府脱走軍が鷲ノ木に上陸した後、密偵の小芝長之助らが函館在留の各国領事宛にフランス語で書かれた脱走軍の声明文を届けているが、そこでは「徳川脱藩家臣」(Les Kerais exiles de Toukugawa)という署名が用いられている[5]。 なお、ウィリアム・グリフィスは著書の『ミカド』で「北海道共和国」として紹介している[3]。 「事実上の政権」戊辰戦争で英、仏、蘭、米、普、伊の6か国は局外中立の立場をとっており、榎本らは局外中立が維持されるよう諸外国の信頼を得る必要があった[3]。榎本らは国際法の交戦団体としては認められなかったが、1868年11月にイギリスやフランスから「事実上の政権 De Facto」に認定されている[3]。 榎本軍が箱館を占領した後、1868年11月4日、英軍艦サトライト、フランス軍艦ヴェニウスは、英公使ハリー・パークスより訓令を与えられ、英国公使館書記官アダムズを同行させて箱館に入港した。この時、弁天台場は、両艦を歓迎する礼砲を撃ったが、両艦とも無視した。 翌11月5日、現地の英仏領事と両艦の艦長が会同して打ち合わせを行ったが、英仏領事とも、この時点では榎本軍に対して高い評価を与えていた。やがて箱館港を管理する箱館奉行永井尚志に来てもらったが、榎本は松前に出張中であり、帰るまでしばらく待って欲しいと答えた。永井は外交経験も豊富であり、彼の態度は、英仏領事のみならず、英仏艦艦長にも好印象を与えた。その会同の最中、榎本艦隊旗艦開陽丸が、賓客の来訪を歓迎する21発の礼砲を撃った。これを見たアメリカ、ロシア帝国、プロイセンの領事は、英仏艦に行かずに開陽丸を表敬訪問した。 11月8日、榎本は英仏領事と英仏艦艦長と会見した。英仏側の言い分は厳しかったが、公法上諒承せざるを得なかった。会談終了後、榎本は、念のためメモランダムを要求し、英仏艦艦長は諒承した。数日後、彼らは榎本に以下のような覚書を送って来た。 機構諸役の決定[編集]
12月15日には諸役を決定するための入札が実施された[4]。この背景として、脱走軍は榎本武揚が指導者になっているとは言え、元藩主や元幕府老中といった大名クラスも参加しており、君臣の関係が複雑であったこと。また「陸軍派」と「海軍派」のグループもあり、「陸軍派」の中も、「彰義隊」と「小彰義隊」等の小グループがあり、全体として一枚岩に纏まってはいなかったことが挙げられる。ただし、この入札(投票)に箱館の住民は参加しておらず、旧幕府軍でも入札に参加したのは士官以上の者で旧幕府脱走軍の総数の3分の1程度にすぎず共和制といえるような公選ではなかった[4]。 「投票」総数856票の内訳は、以下の通りであった[6]。
このように榎本武揚が最大投票を得た。ただし、投票数の2割以下で、圧倒的多数ではなく、各グループごとに投票は分かれている。また、これとは別に役職選挙が行われている。
政権首脳この「入札」の結果を参考にして、主要ポストは以下のように決定された[8]。
「入札」で票を得た者全員がポストに就いてはおらず、得票結果がそのまま反映されたわけではない。 軍事軍事組織旧幕府軍は陸軍と海軍に分かれ、以下のような組織となっていた。なお「列士満(レジマン)」と言うのは、フランス語で連隊を意味する Régiment をそのまま当て字にしたものである。
フランス人軍事顧問1867年から横浜の大田陣屋で幕府伝習隊の教練をしていたフランス軍事顧問団から副隊長ジュール・ブリュネ砲兵大尉ら5人がフランス軍籍を脱走して蝦夷政権に参加した。その他海軍からの脱走者2人、軍歴を持っていた横浜在住の民間人3人、合計10人のフランス人が蝦夷政権に参加した。ジュール・ブリュネは陸軍奉行・大鳥圭介の補佐役となり、4個「列士満」はフランス軍人(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を指揮官としていた。また、海軍の2人と、元水兵の1人は、宮古湾海戦に参加した。フランス軍人らは五稜郭陥落前に箱館沖に停泊していたフランス船に脱出している。これらフランス軍人の通訳は横浜仏語伝習所でフランス語を学んだ田島金太郎らが担当した。 大鳥圭介の南柯紀行では、ブリュネを「未だ年齢壮(わ)かけれども性質怜悧(れいり)」カズヌーヴを「頗る勇敢であり松前進軍のときにも屡(しばしば)巧ありたり」と好意的に書いている。 野戦病院榎本らは特に局外中立が維持されるよう諸外国の信頼を得る必要があり、統治や軍事で西欧的な方法を重視したといわれており、その一つにジュネーヴ条約(1864年)の取り決めに基づく対応があった[3]。榎本の蝦夷地上陸後、敵味方の区別なく治療を行う野戦病院(箱館病院)が設置され、榎本から病院頭取医師取締全権に任命された高松凌雲らが、まず官軍の負傷者6名の治療にあたり(1名は死亡)、5名が本州に送り帰された(「日本最初の赤十字活動」と称されている)[9]。この病院では榎本の蝦夷地上陸から1869年8月下旬まで敵味方合わせて約1340名の治療にあたったが、これはジュネーヴ条約の趣旨に沿うものであった[3]。しかし、このような精神は完全には浸透しておらず、新政府軍の進軍時、病院の本院では院長の高松による患者の保護の主張が受け入れられたが、高龍寺分院では混乱が発生している[3]。なお、日本がジュネーヴ条約に加盟するのは1886年(明治19年)6月のことである[3]。 地元住民との関係旧幕府軍の財政事情は悪化し、前もって用意していた軍資金も乏しくなっていった。そこで旧幕府軍において資金調達を担当していた会計奉行の榎本道章と、副総裁の松平太郎は、蝦夷共和国内で新貨幣を鋳造発行した。このことがのちに「脱走金」の悪名を流すことになった。更には、縁日の出店を回って場所代を取り立てたり、賭博場を黙認する代わりに寺銭を巻き上げたり、はては売春婦から税を取ったり、箱館湾から大森浜まで柵を廻らして一本木に関門を設け、そこを通る女子供にまで通行税を出させるなどといった事を行い、住民の反感を買うことになった[10]。 脚注
参考文献
関連項目検索に移動 不平等条約(ふびょうどうじょうやく、英語: unequal treaty)とは、条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約である。 概要19世紀から20世紀初頭にかけて、帝国主義列強はアジア諸国に対して、条約港の割譲や在留外国人の治外法権承認、領土の割譲や租借など不平等な内容の条約を押し付けた。その中には、片務的最恵国待遇もあった。憲法および法典(民法、商法、刑法など)を定めている先進国側が、それらの定められていないあるいは整備の進んでいない国において、それらを定めていないことによって被るであろう不当な権力の行使を避けるために結ばれることが多い。 不平等条約は、具体的には「関税自主権を行使させない」ことや「治外法権(領事裁判権)などを認めさせる」ことによって、ある国の企業や個人が、通商にかかわる法典の整備されていない国から商品を輸入する際に莫大な税金を要求されたり、軽犯罪によって死刑を被ったりすることを避けることを目的としたものである。たとえば、条約上有利な国の国民が不利な側にある国の居留民として犯罪を犯した際、その国の裁判を免れることから、重大な犯罪が軽微な処罰ですんだり、見過ごされたりする場合もあった。 元来は、オスマン帝国が恩恵的にフランス、オランダ、イギリスに対して与えていたカピチュレーションの制度において、領事裁判権その他を認めていたものだが、産業革命以後は西欧経済圏への従属を企図したものに変質していった。 歴史的には、イギリスと清国がアヘン戦争後の1842年に結んだ南京条約が近代的な意味での「不平等条約」の嚆矢となった。中国は、宣教師の駐在を許可するという名目で外国との貿易のために5港(広州、福州、廈門、寧波、上海)を開き、中国の法秩序ではなく、外交官である領事の権威によって港市の在留外国人の公正を守ろうとして「治外法権」を認めた。ただし、中国に不平等条約を押し付けることができなかった国も存在する。 日本も封建制度の体制下で欧米の近代法にある法治国家の諸原則が存在しておらず、刑事面では拷問や残虐な刑罰(火あぶりなど)が存置され、民事面では自由な契約や取引関係を規制して十分な保護を与えていなかったために、欧米列強からはその対象国であると考えられていた。一方で日本の側でも認識不足があり、外国人を裁く事の煩雑さを免れることと、関税という概念を十分に理解していなかったことから、結果として不平等条約を結ぶこととなった。 江戸幕府が日米和親条約や日米修好通商条約で長崎、下田、箱館、横浜などの開港や在留外国人の治外法権を認めるなどの不平等条約を結ばされ、明治初期には条約改正が外交課題となっていた。一方で明治時代に入ると、朝鮮、清に対して日朝修好条規[1]や下関条約[2]、「日清通商航海条約」[3]など不平等条約を結んだ。なお日清通商航海条約に先立って締結されていた日清修好条規は、日清両国が相互に治外法権を認めるという、欧米によって押し付けられた不平等条約の事項を、相互に認め合うというものであった。いわば「平等条約」であるが、条約として特異なものであるとされる。 朝鮮で最初の不平等条約は西洋とではなく日本と結んだ日朝修好条規であった。1894年から1895年にかけて起こった日清戦争後、西洋諸国はもはや日本に対して不平等条約を結ぶことは不可能であるとみなした。朝鮮に対して欧米各国が結んだ数多くの不平等条約は、1910年の日本による韓国併合によって大部分が無効となった。 1911年、日本はアメリカとの間に新しく日米通商航海条約を結び、関税自主権を完全に回復した。 第一次世界大戦後、中国ではナショナリズムが興起して中華民国政府により国権回復運動が進められ、日中戦争中には中国の不平等状態の解消がおおいに進んだ。しかし、不平等条約の全面的解消は第二次世界大戦後の植民地解放を待たなければならなかった。なお、中国の国権回復運動について、当時日本の外務大臣であった幣原喜重郎は「日本は不平等条約撤廃にあたって打倒帝国主義などと叫ばず国内改革に尽力し、不平等でも条約を遵守して、列強が条約改正に快く同意するだけの近代化を行った。不平等条約は国内政治の結果であって原因ではない」と述べている[4]。 なお、1998年改正以前の日本側とアメリカ側で以遠権の行使条件に差があった日米航空協定なども「不平等条約」といわれることがある。2009年に日本とEUが刑事共助協定を締結したが、日本に死刑制度があることを理由に、死刑の可能性のある犯罪に関しては一方的にEUが共助要請に対して拒否権を行使でき、日本で殺人などの罪を犯した容疑者がEU域内に逃げ込めばEU側が一方的に証拠収集等の捜査協力を拒否できることが判明している[5]。 さらに、現代において核兵器の保有国と非保有国で権利・義務の関係が異なる核拡散防止条約が、主権対等の原則に反するとして「不平等条約」と称される場合がある[6]。 2国間FTAやTPPなどの関税を引き下げる世界的潮流がある。経済学的には関税は国家財政に寄与するが、一方で消費者たる国民にとって不利益となる。関税自主権のない時代は、消費者や内需企業にとって海外の財やサービスが安価に手に入る時代でもあった 19世紀から20世紀初期の東アジア清
李氏朝鮮幕末・明治期日本
琉球王国阮朝ベトナム註釈関連項目ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、英: Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty)は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約[1]。日露講和条約とも称する。 1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊[注釈 1]のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された[1]。 また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。 概要日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦戦勝後の1905年(明治38年)6月、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼的斡旋」(外交文書)を申し入れた。米国に斡旋を依頼したのは、陸奥国一関藩(岩手県)出身の日本の駐米公使高平小五郎であり、以後、和平交渉の動きが加速化した[2]。 講和会議は1905年8月に開かれた。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかけることで事態の収拾をはかった。結局、ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結した。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。 この条約によって日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。 交渉の経緯交渉に至るまで1905年3月、日本軍はロシア軍を破って奉天(現在の瀋陽)を占領したものの、継戦能力はすでに限界を超え、特に長期間の専門的教育を必要とする上に、常に部隊の先頭に欠かせない尉官クラスの士官の損耗が甚大で払底しつつあり、なおかつ、武器・弾薬の調達の目途も立たなくなっていた。一方のロシアでは同年1月の血の日曜日事件などにみられる国内情勢の混乱とロシア第一革命の広がり、ロシア軍の相次ぐ敗北とそれに伴う弱体化、さらに日本の強大化に対する列強の怖れなどもあって、日露講和を求める国際世論が強まっていた[2]。 1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。5月31日、小村寿太郎外務大臣は、高平小五郎駐米公使[注釈 2]にあてて訓電を発し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた[3]。ルーズベルト大統領は日露開戦の当初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、「日本はアメリカのために戦っている」と公言しており、また全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフと鉄道王のエドワード・ヘンリー・ハリマンが先頭に立って日本の国債を買い支えるなど、アメリカは満洲、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入のために日本を支援していた[4]。 米大統領の仲介を得た高平は、小村外相に対し、ポーツマスは合衆国政府の直轄地で近郊にポーツマス海軍造船所があり、宿舎となるホテルもあって、日露両国の全権委員は互いに離れて起居できることを伝えている[2]。 パリ(ロシア案)、芝罘またはワシントンD.C.(日本の当初案)、ハーグ(米英案)を押さえての開催地決定であった[2]。ポーツマスは、ニューヨークの北方約400キロメートル地点に立地し、軍港であると同時に別荘の建ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備がきわめて容易なことから公式会場に選定されたのである[5]。 また、米国内の開催には、セオドア・ルーズベルトの「日本にとって予の努力が最も利益になるというのなら、いかなる時にでもその労を執る」(外交文書)という発言に象徴される親日的な性格[注釈 3]に加え、講和の調停工作を利用し、米国をして国際社会の主役たらしめ、従来ロシアの強い影響下にあった東アジアにおいて、日・米もふくんだ勢力均衡の実現をはかるという思惑があった[2]。 中国の門戸開放を願うアメリカとしては、日本とロシアのいずれかが圧倒的な勝利を収めて満州を独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア、戦力の限界点を超えて勝利を確実にしたい日本のそれぞれの希望が一致したのである[7]。ドイツ・フランス両国からも、「ロシアの内訌がフランス革命の時のように隣国に容易ならざる影響を及ぼす虞がある」(外交文書)として講和が打診されていた。ルーズベルトの仲介はこれを踏まえたものであったが、その背景には、米国がその長期戦略において、従来「モンロー主義」と称されてきた伝統的な孤立主義からの脱却を図ろうとする思潮の変化があった[2]。 ルーズベルト大統領は、駐露アメリカ大使のジョージ・マイヤーにロシア皇帝への説得を命じたあと、1905年6月9日、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案した。この提案を受諾したのは、日本が提案のあった翌日の6月10日、ロシアが6月12日であった[3]。なお、ルーズベルトは交渉を有利に進めるために日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して同地を占領すべきだと意見を示唆している[3][注釈 4]。 日本の国内において、首相桂太郎が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相小村寿太郎ではなく元老伊藤博文であった。桂政権(第1次桂内閣)は、講和条件が日本国民に受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのである[9]。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤も全権大使への就任を辞退した[9][注釈 5]。 結局、日向国飫肥藩(宮崎県)の下級藩士出身で、第1次桂内閣(1901年-1906年)の外務大臣として日英同盟の締結に功のあった小村壽太郎が全権代表に選ばれた。小村は、身長150センチメートルに満たぬ小男で、当時50歳になる直前であった[11]。伊藤博文もまた交渉の容易でないことをよく知っており、小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましている[12]。 対するロシア全権代表セルゲイ・ウィッテ(元蔵相)は、当時56歳で身長180センチメートルを越す大男であった[11]。戦前は財政事情等から日露開戦に反対していたものの、かれの和平論は対日強硬派により退けられ、戦争中はロシア帝国の政権中枢より遠ざけられていた。ロシア国内では、全権としてウィッテが最適任であることは衆目の一致するところであったが、皇帝ニコライ2世は彼を好まなかった[12]。ウラジーミル・ラムスドルフ外相は駐仏大使のアレクサンドル・ネリードフを首席全権とする案が有力だったが、本人から一身上の都合により断られた[12][13]。その後、駐日公使の経験をもつデンマーク駐在大使のアレクサンドル・イズヴォリスキー(のち外相)らの名も挙がったが、結局ウィッテが首席全権に選ばれた[12][13]。イズヴォリスキーはウィッテの名を挙げてラムスドルフ外相に献策したといわれる[14]。失脚していたウィッテが首席全権に選ばれたのは、日本が伊藤博文を全権として任命することをロシア側が期待したためでもあった[14]。ウィッテは、皇帝より「一にぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」という厳命を受けていた[11]。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった[11]。次席全権のロマン・ローゼン駐米大使は開戦時の日本公使であり、彼自身は戦争回避の立場に立っていたとされ、また、西徳二郎外相とのあいだで1898年に西・ローゼン協定を結んだ経歴のある人物である[15]。 すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年に想定し、先制攻撃をおこなって戦況が優勢なうちに講和に持ち込もうとしていた[16]。開戦後、日本軍が連戦連勝をつづけてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月の奉天会戦の勝利以後は武器・弾薬の補給も途絶えた。そのため、日本軍は決してロシア軍に対し決戦を挑むことなく、ひたすら講和の機会をうかがった[注釈 6]。5月末の日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅したことは、その絶好の機会だったのである[16]。 すでに日本はこの戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。満州軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていた[16]。とくに専門的教育に年月を要する下級将校クラスが勇敢に前線を率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていた[12]。一方、ロシアは、海軍は失ったもののシベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった[16]。 6月30日、桂内閣は閣議において小村・高平両全権に対して与える訓令案を決定した[18]。その内容は、(1)韓国を日本の自由処分にゆだねること、(2)日露両軍の満州撤兵、(3)遼東半島租借権とハルビン・旅順間の鉄道の譲渡の3点が「甲・絶対的必要条件」、(1)軍費の賠償、(2)中立港に逃げ込んだロシア艦艇の引渡し、(3)樺太および付属諸島の割譲、(4)沿海州沿岸の漁業権獲得の4点が「乙・比較的必要条件」であり、他に「丙・付加条件」があった[18]。それは、(1)ロシア海軍力の制限、(2)ウラジオストク港の武装解除であった[19]。 首席特命全権大使に選ばれた小村は、こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議に臨んだ。小村の一行は1905年7月8日、渡米のため横浜港に向かう新橋停車場を出発したが、そのとき新橋駅には大勢の人が集まり、大歓声で万歳し、小村を盛大に見送った。小村は桂首相に対し「新橋駅頭の人気は、帰るときはまるで反対になっているでしょう」とつぶやくように告げたと伝わっている[12][16]。井上馨はこのとき、小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇にたった。いままでの名誉も今度で台なしになるかもしれない」と語ったといわれる[20]。小村一行は、シアトルには7月20日に到着し、一週間後ワシントンでルーズベルト大統領に表敬訪問をおこない、仲介を引き受けてくれたことに謝意を表明した[12][注釈 7]。 児玉源太郎は、日本が講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金の一条があることを知り、「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという[22]。日露開戦前に小村外相に「七博士意見書」を提出した七博士の代表格として知られる戸水寛人は、講和の最低条件として「償金30億円、樺太・カムチャッカ半島・沿海州全部の割譲」を主張し、新聞もまた戸水博士の主張を挙げるなどして国民の期待感を煽り、国民もまた戦勝気分に浮かれていた[22]。黒龍会が1905年6月に刊行した『和局私案』では、韓国を完全に勢力圏におき、東三省(満洲)からのロシアの駆逐、ポシェト湾の割譲、樺太回復、カムチャッカ半島の領有が必要だと論じられた[23]。陸羯南の『日本』でも、賠償金30億円は「諸氏の一致せる最小限度の条件」のひとつに位置づけられていた[23]。日清戦争後の下関条約では、台湾の割譲のほか賠償金も得たため、日本国民の多くは大国ロシアならばそれに見合った賠償金を支払うことができると信じ、巷間では「30億円」「50億円」などの数字が一人歩きしていた[22]。 日本国内においては、政府の思惑と国民の期待のあいだに大きな隔たりがあり[22]、一方、日本とロシアとのあいだでは、「賠償金と領土割譲」の2条件に関して最後の最後まで議論が対立した[11]。 ロシア全権大使ウィッテは、7月19日、サンクト・ペテルブルクを出発し、8月2日にニューヨークに到着した。ただちに記者会見を試み、ジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国世論を巧みに味方につけていった[11][12]。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求する厳しいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心を持つようになるだろうと考えたのである[11]。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた[11]。 それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、中には激怒した記者もいたという[11]。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった[11][注釈 8]。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった[12]。 講和会議講和会議の公式会場はメイン州キタリーに所在するポーツマス海軍工廠86号棟であった。海軍工廠(ポーツマス海軍造船所)はピスカタカ川の中洲にあり、水路の対岸がニューハンプシャー州ポーツマス市[注釈 9]である。日本とロシアの代表団は、ポーツマス市に隣接するニューカッスルのホテルに宿泊し、そこから船で工廠に赴いて交渉を行った。 交渉参加者は以下の通りである。
講和会議は、1905年8月1日より17回にわたって行われた[7]。8月10日からは本会議が始まった[12]。また、非公式にはホテルで交渉することもあった。 8月10日の第一回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してウィッテの了解を得た。小村がウィッテに示した講和条件は次の12箇条である。
それに対してウィッテは、8月12日午前の第二回本会議において、2.3.4.6.8.については同意または基本的に同意、7.については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」、11.については「屈辱的約款には応じられないが、太平洋上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」、12.に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、5.9.10については、不同意の意を示した[12]。この日は、第1条の韓国問題についてさらに踏み込んだ交渉がなされた[12]。ウィッテは、日露両国の盟約によって一独立国を滅ぼしては他の列強からの誹りを受けるとして、これに反対した[25]。しかし、強気の小村はこれに対し、今後、日本の行為によって列国から何を言われようと、それは日本の問題であると述べ、国際的批判は意に介せずとの姿勢を示した[25]。ウィッテも譲らず、交渉は初手から難航した[12][25]。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論を議事録にとどめ、ロシアが日本に抵抗した記録を残し、韓国の同意を得たならば、日本の保護権確立を進めてもよいのではないかという妥協案をウッィテに示した[25]。小村もまた、韓国は日本の承諾がなければ、他国と条約を結ぶことができない状態であり、すでに韓国の主権は完全なものではないと述べた[25]。ウィッテは小村の主張を聞いて、ローゼンの妥協案を受け入れた[25]。こうして、1.についても同意が得られた。 8月14日の第3回本会議では第2条・第3条について話し合われ、難航したものの最終的に妥結した。15日の第4回本会議では第4条の満州開放問題が日本案通りに確定され、第5条の樺太割譲問題は両者対立のまま先送りされた。16日の第5回本会議では第7条・第8条が討議され、第7条は原則的な、第8条は完全な合意成立に至った[12]。 8月17日の第6回本会議、18日の第7回本会議では償金問題を討議したが、成果が上がらず、小村全権の依頼によって、かねてより渡米し日本の広報外交を担っていた金子堅太郎がルーズベルト大統領と会見して、その援助を求めた[12]。ルーズベルトは8月21日、ニコライ2世あてに善処を求める親電を送った。 8月23日の第8回本会議では、ウィッテは小村に対し「もしロシアがサハリン全島を日本にゆずる気があるならば、これを条件として、日本は金銭上の要求を撤回する気があるか」という質問をなげかけた[26]。ロシアとしては、これをもし日本が拒否したならば、日本は金銭のために戦争をおこなおうとする反人道的な国家であるという印象を世界がいだくであろうと期待しての問いであった[26]。それに対し、小村は樺太はすでに占領しており、日本国民は領土と償金の両方を望んでいると応答した[26][27]。ルーズベルトは日本に巨大な償金の要求をやめよと声をかけた[26]。 ルーズベルトは再び斡旋に乗りだしたが、ニコライ2世に講和を勧める2度目の親書の返書を受け取ったとき「ロシアにはまったくサジを投げた。講和会議が決裂したら、ラムスドルフ外相とウィッテは自殺して世界にその非を詫びなければならぬ」と口荒く語ったといわれている。8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった[12]。しかし、このとき高平との非公式面談の席上、ロシアは「サハリン南半分の譲渡」を示唆したといわれる[27]。しかし、小村らはロシアは毫も妥協を示さないとして、談判打ち切りの意を日本政府に打電した[27]。 政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同たいへんな衝撃を受けた[28]。 これに前後して、ニコライ2世が樺太の南半分は割譲してもよいという譲歩をみせたという情報が同盟国イギリスから東京に伝えられたため、8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した[27]。これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた[29]。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている[12]。 アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した[28]。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れるほかなかった[29]。9月1日、両国のあいだで休戦条約が結ばれた。 以上のような曲折を経て、1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望した[29]。 合意内容ポーツマス会議における日本全権小村壽太郎の態度はロシア全権ウィッテと比較してはるかに冷静であったとロシア側の傍聴者が感嘆して記している[30]。すでに日本の軍事力と財政力は限界に達しており、にもかかわらず日本の国民大衆はそのことを充分認識していないという状況のなか、ロシアの満州・朝鮮からの撤兵という日本がそもそも日露戦争をはじめた目標を実現し、新たな権益を獲得して強国の仲間入りを果たした[30]。 ウィッテは、ロシア国内に緒戦の敗北は持久戦に持ち込むことによって取り戻すことができるとする戦争継続派が存在するなかの交渉であった。講和会議が決裂した場合には、ウィッテが失脚することはほぼ間違いない状況であった[30]。国内の混乱も極限状態であり、革命前夜といってよかった。ウィッテは小村以上の窮状に身をおきながら、日本軍が侵攻した樺太全島のうち、北緯50度以南をあたえただけで北部から撤退する約束のみならず、賠償金支払いをおこなわない旨の合意を日本から取り付けることができた[30]。 講和内容の骨子は、以下の通りである。
日本は1905年10月10日に講和条約を批准し、ロシアは10月14日に批准している[12]。 影響「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。しかし日本国民の多くは、連戦連勝の軍事的成果にかかわらず、どうして賠償金を放棄し講和しなければならないのかと憤った[30]。有力紙であった『万朝報』もまた小村全権を「弔旗を以て迎えよ」とする社説を掲載した[12]。しかし、もし戦争継続が軍事的ないし財政的に日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、政府は実情を正確に国民に伝えることができなかったのである[30]。 日本政府としては、このような大きなジレンマをかかえていたが、果たして、ポーツマス講和条約締結の9月5日、東京の日比谷公園で小村外交を弾劾する国民大会が開かれ、これを解散させようとする警官隊と衝突し、さらに数万の大衆が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系と目された国民新聞社を襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した(日比谷焼打事件)[31]。群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[12][30]。結局、政府は戒厳令をしき軍隊を出動させた[31]。こうした騒擾は、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満のあらわれであったが、講和反対運動は全国化し、藩閥政府批判と結びついて、翌1906年(明治39年)、第1次桂内閣は退陣を余儀なくされた。 ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村外相の反対によって破棄された[4]。 清国に対しては、1905年12月、満州善後条約が北京において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。すなわち、南満洲鉄道の吉林までの延伸および同鉄道守備のための日本軍常駐権ないし沿線鉱山の採掘権の保障、また、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、安奉鉄道の使用権継続と日清両国の共同事業化、営口・安東および奉天における日本人居留地の設置、さらに、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などであり、これらはいずれも戦後の満洲経営を進める基礎となり、日本の大陸進出は以後いっそう本格化した。 大韓帝国皇帝高宗はロシア勝利を期待したため、深く失望したといわれる[29]。韓国に関しては、7月の桂・タフト協定でアメリカに、8月の第二次日英同盟条約でイギリスに、さらにこの条約ではロシアに対しても、日本の韓国に対する排他的優先権が認められ、11月の第二次日韓協約によって韓国は外交権を失った。12月、首都漢城に統監府が置かれ、韓国は日本の保護国となった。 この条約の結果、日本は「一等国」と自称するようになった。当時の大国に所在した日本の在外公館は、多くは公使館であったがいずれも大使館に昇格し、在東京の外国公使館も大使館に格上げされることとなった[32]。しかし、その一方、国民のあいだでは従来の明確な国家目標が見失われ、国民の合意形成は崩壊の様相を呈した[33]。 セオドア・ルーズベルト米大統領は、この条約を仲介した功績が評価されて、1906年にノーベル平和賞を受賞した。また、この条約ののちアメリカは極東地域への発言権と関与をしだいに強めていった。ルーズベルトの意欲的な仲介工作によって、ポーツマス講和会議は国際社会における「アメリカの世紀」への第一歩となったという評価もある[2]。だが上記のような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。 ロシアでは、皇帝の専制支配に対する不満が社会を覆い、10月に入るとインフレーションに対する国民の不満は一挙に爆発してゼネスト(ゼネラル・ストライキ)の様相を呈した。講和会議のロシア全権であったセルゲイ・ウィッテは混乱収拾のために十月詔書を起草、皇帝ニコライ2世はそれに署名した。しかし、なおもロシア第一革命にともなう混乱は1907年までつづいた。 小村はといえば、講和会議直後の9月9日、滞米中に発病して、医師より絶対安静を命じられ、9月14日付の電報で腸チフス初期の兆候であることを桂太郎に伝えている[18]。元来、小村には肺結核の持病があったが、心身ともに疲弊して帰国したのがようやく10月16日のことであった[34]。その日、横浜港に停泊していた日本艦隊と来舶中の英国艦隊は礼砲を撃ったが、横浜市民は小村が上陸すると知るや、英国艦隊歓迎のために掲げた国旗を皆おろしてしまったという[34]。しかし、伊藤博文は小村を出迎え、厚く慰労のことばをかけた[34]。また、留守宅襲撃と一家殺害の知らせを前もって聞いていた小村は、船内まで入ってきた長男小村欣一の姿をみて「おまえ生きておったか」と声をかけ、しばらく愛息の顔を見つめていたと伝わっている[34]。新橋駅では、群衆より「速やかに切腹せよ」「日本に帰るよりロシアに帰れ」との罵声を浴びた[34]。乗降場に降り立った小村を、総理大臣桂太郎と海軍大臣山本権兵衛が左右両側から抱きかかえるように寄り添い、小村を撃とうとする者がいた場合に備えて命をかけて小村を守ったといわれている[34]。 補説歴史遺産としてのポーツマスポーツマスはニューハンプシャー側に位置し、ポーツマス海軍工廠はメイン州側で州を挟んでいる。 アメリカでは、ポーツマス講和会議にかかわる歴史遺産の保全活動が進められている。 日本全権が宿舎としたウェントワース臨海ホテルは1981年に閉鎖されたままとなっており、老朽化が著しく、雨漏りや傷みもひどかった。そこで、ポーツマス日米協会が窓口となって「ウェントワース友の会」が設立され、ホテルの再建計画が立てられ、復元作業がなされた[2][注釈 10]。 公式会場となったポーツマス海軍工廠では、1994年3月、会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設された[2]。2005年、老朽化のため海軍工廠を閉鎖するとの政府決定が発表されたが、ポーツマスではそれに対する反対運動が起こり、その結果、閉鎖は撤回されている。 また、現地では、日米露3国の専門家による「ポーツマス講和条約フォーラム」が幾度か開催されており[2]、2010年にはニューハンプシャー州で9月5日を州の記念日にする条例が成立した[36]。 モンテネグロ公国参戦についてモンテネグロ公国は日露戦争に際してロシア側に立ち、日本に対して宣戦布告したという説がある。これについては、2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男議員が、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか」との内容の質問主意書を提出[37]。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない」との答弁書を出している[38]。 ロシアの公文書を調査したところ、ロシア帝国がモンテネグロの参戦打診を断っていたことが明らかとなり、独立しても戦争状態にならないことが確認された。 年譜いずれも1905年(明治38年)。調印7日後に太平洋間海底ケーブルについて契約が締結されている。
関連作品
北海道旧土人保護法(ほっかいどうきゅうどじんほごほう、明治32年3月2日法律第27号)は、北海道アイヌを「保護」する目的で制定された日本の法律である。 概要江戸時代より、江戸幕府は北海道を管轄する松前藩に対し、北海道アイヌの待遇改善を指示してきた。田沼意次の蝦夷地(北海道)開発を目的とした北方探索などで、松前藩の北海道アイヌに対する差別的待遇は明らかであったが、当時の各藩の独立性に加え、遠隔地であるために政府の影響力が弱かったため、改善には至らなかった。 明治維新後に政府はアイヌ保護政策をとり、授産と教化を進めてきたが、アイヌが貨幣経済に馴染めなかったこともあり、充分な成果は上げられなかった。1891年(明治24年)に道庁が授産指導を廃止すると、耕地を捨て放浪する者が現れ、政府が与えた生活基盤の多くが失われてしまった。こうしたアイヌの窮状を救う目的で、1893年(明治26年)に加藤正之助によって第五回帝国議会へ北海道土人保護法案が提出、アイヌ自身も代表を送り法案成立を目指して国会に陳情し、1899年(明治32年)に制定。 施行によって給与された土地の農耕を忌避する文化[1][2]をもつアイヌはおおむね和人に賃貸し、自らは却って困窮するといった現象を生じた。この実情に鑑み、1937年(昭和12年)同法改正案を可決・施行し、土地の無償給与(8,338町歩、一戸あたり2.2町歩)、進学者への学資、住宅改築8割補助金の給付等のアイヌ保護育成策を構じた[3]。 1948年(昭和23年)、マッカーサーが指令した農地改革法により不在地主地は無条件で解放されアイヌは土地を失ったが、和人との「混住によって自立自営の精神を涵養する機会[4]」とした者も多くいた。 条文の中には既に死文化した物も多く、また旧土人という名称へ抵抗を感じる人も居り、1970年頃には旭川市が中心になって廃止運動も行われたが、北海道ウタリ協会の総会では「(アイヌを保護する法に)代わるべき法が無いのに、今すぐ廃止してしまえと言うのは無定見」と満場一致で廃止運動へ反対する決議が採択され、見解の相違が存在した[5]。アイヌ民族からはじめての国会議員である萱野茂によって国会で廃止提案され、1997年(平成9年)7月1日、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(1997年(平成9年)法律第52号、アイヌ文化振興法)は国会で全会一致で可決。その施行に伴い廃止された(附則2条)。同時に、旭川市旧土人保護地処分法(1934年(昭和9年)法律第9号)も廃止された。 この法律は貧困にあえぐ「北海道旧土人」(アイヌ)の保護を目的とし、土地[6]、医薬品[7]、埋葬料[8]、授業料の供与[9]、供与に要する費用にはアイヌの共有財産からの収益を用い、不足時は国庫から出すこと[10]、アイヌの共有財産は北海道庁長官が管理すること[11]、供与地の換金を防ぐ目的で相続以外の譲渡や永小作権設定の禁止[12]などが定められていた。 高野斗志美はこれを「アイヌの財産を収奪[13]し、文化帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠として活用された」と主張した。 常本照樹によれば、具体的には 等々が実行に移されたとされる[14]。 脚注
北大人骨事件(ほくだいじんこつじけん)とは、1995年(平成7年)7月26日に北海道大学構内の古河記念講堂旧標本庫において、段ボール箱に納められた6つの頭骨が発見された事件である。 6体の人骨の内訳は「韓国東学党」と墨書きされたものが1体、「オタスの杜・風葬オロッコ」と書かれた貼り紙がされていたものが3体、「日本男子20才」と書かれた貼り紙がされていたものが1体、「寄贈頭骨出土地不明」と書かれた貼り紙がされていたものが1体であった[1]。 オタスの杜とは太平洋戦争前に樺太の敷香町郊外にあったウィルタ(オロッコ)やニヴフ(ギリヤーク)など先住民の指定集住地である。かつてアイヌ墓の盗掘が社会問題となったこともあり(後述)、持ち出されたという事実が知られていなかったことから、これらの人骨は無断で持ち出された疑いがある。人骨はアイヌ式の供養がなされた。 背景1939年(昭和14年)から1956年(昭和31年)にかけ、北海道大学(北海道帝国大学)は北海道・千島・樺太の各地より研究の名目で1004体のアイヌの遺骨を収集し、時には遺族に無断でアイヌ民衆を警察により排除しての発掘が行われていたこともあった。盗掘された遺骨には、イザベラ・バードやジョン・バチェラーにアイヌ文化を伝授した平村ペンリウクや、ポーランド出身の学者、ブロニスワフ・ピウスツキの妻である樺太アイヌ女性・チュフサンマのおじ・バフンケ(日本名・木村愛吉)など、地元の名士として尊崇されていたアイヌのものも含まれる。 絶滅した動物と同列に並べられる等、非人道的であると非難が集まる中、1980年代にアイヌ人骨が発見され、ウタリ協会は人骨の返還・供養を求めた。1984年(昭和59年)に作られた納骨堂には969体が治められている(2004年現在)。遺骨へは毎年イチャルパとよばれる供養会が行われている。 事件の経緯北海道大学文学部元教授の吉崎昌一が1995年3月に退官した後、部屋のスペースを確保するために、吉崎が「標本庫」として使用していた古河講堂8番室(後に101号室へと改名される)を足立明助教授や井上昭洋助手、大学院学生、学部学生、研究生、吉崎の研究室に出入りしていたアイヌ民族の男性が掃除していたところ、棚の中に「人骨」と記入されているダンボールがあることに気づいた[3]。中を改めてみると、頭骨が6体、新聞紙にくるまれて収められていた[3]。足立が考古学の林謙作教授に連絡を取り、観察を行ってもらったところ、いずれも古人骨ではないことが確認された[3]。そこで足立は頭骨をダンボール箱に入れたままにし、翌日改めてその由来を検討することに決めた[3]。しかしその翌日の朝、作業に参加していたアイヌ民族の男性が頭骨を供養するためにダンボール箱を持ち出すということが起こった[3]。頭骨の発見が今西順吉文学部長に報告され、足立ら関係者から事情を聴取した後「古川講堂『旧標本庫』人骨問題調査委員会」を設置し、問題の究明にあたることとなった[3]。 その後、「アイヌ・モシリの自治区を取り戻す会」の代表である山本一昭ほか数名が、この北海道大学大学院文学研究科・文学部古河講堂「旧標本庫」人骨問題に対して抗議をしに文学部を訪れた際に、アイヌ民族の男性によって持ち出された頭骨が、山本の元にあることが判明する[3]。山本がラジオ番組で語ったところによれば、頭骨を持ち出したアイヌ民族の男性から話を聞いた山本が、自身のもとに頭骨を持ってくるよう要請し、それらが本物であると思われたためアイヌ民族方式のカムイノミを行ったのだという[3]。話し合いの末、山本から文学部に頭骨は一旦返却されることとなった[3]。 吉崎は、調査委員会が行った事情聴取で、当初は前任者である名取武光助教授から引き継いだものである可能性が高い、自身も引き継いだものを全てチェック出来ておらず、頭骨の存在については知らなかったと述べていた[4]。しかし、その後証言を変化させ、1969年に大学封鎖のバリケードが解除された後、箱を開けて、その中に複数の頭骨があることを確認したが、研究対象としては関心がない新しい頭骨であったため、そのままにしておいたと証言している[4]。 北海道大学文学部古河講堂「旧標本庫」人骨問題調査委員会は当初から、調査によって頭骨の関係者が判明すれば、その関係者に返還することを基本方針としていた。「韓国東学党」と墨書きされた頭骨は東学農民革命軍指導者遺骸奉還委員会に[5]、「オタスの杜・風葬オロッコ」と張り紙がされた頭骨は一時的に北海道大学で保管された後、田中了の尽力によってサハリンに返還された[6]。一方、「日本男子20才」と書かれた貼り紙がされていた頭骨と「寄贈頭骨出土地不明」と書かれた貼り紙がされていた頭骨は返還先が見つからず、2006年に札幌市の浄土真宗本願派大乗寺に、焼骨を行わずに納骨するという形で仮安置された[7]。 事件後本事件では、研究機関と植民地主義とが密接な関係にあったことが問題の争点とされている。植民地で人骨を採集し、それを測定して人種の違いや種族の類型、そして種族の優劣を特定判断するという目的のもとで、当時の研究者はすでに違法であったにも関わらず、人骨を盗み出し、盗み出された人骨は研究機関に集められて研究資料とされた[8]。その植民地主義に基づいた人骨の収集研究の拠点が、北海道大学をはじめとした研究機関であった[8]。しかし年月を経て、それらの人骨が植民地主義的な調査のために収集されたものだということが忘れられ、研究機関に放置されるままとなってしまい、先住民などから返還を求められている遺骨は、過去の植民地主義の負の遺産として残された[8]。 また、遺骨返還問題に対して、研究機関が真剣に向き合って対応していないことも問題とされる[8]。研究機関にいまだ残された多くの遺骨に対して、どのような対処を行うべきなのか、何処に (誰に)返還するべきなのか、返還先が分からない場合、どうするべきなのかといった問題は、今後も研究機関や研究者に対して問いかけられる問題である[8]。研究機関や学術研究と植民地主義との関係という過去に向き合った上で、それらの問題に対して取り組んでいくことが必要と指摘される[8]。 脚注
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公益社団法人北海道アイヌ協会(ほっかいどうアイヌきょうかい)は、北海道居住のアイヌの組織。1930年(昭和5年)に設立され、1946年(昭和21年)に社団法人となった。1961年(昭和36年)に北海道ウタリ協会(ほっかいどうウタリきょうかい)に改称し、2009年(平成21年)4月1日に再度、北海道アイヌ協会に改称した。 2009年(平成21年)、釧路支部の一部会員が分離独立し、千島・道東アイヌ協会の設立に至った。この新組織は、北方領土出身者、北千島、中部千島、釧路、根室、十勝、網走のアイヌ民族の結束を固めることが目的である。 設立の目的「アイヌ民族の尊厳を確立するため、その社会的地位の向上と文化の保存・伝承及び発展を図ること」と、北海道アイヌ協会の公式サイトに明記されている[1]。 『北海道アイヌ協会』であり、「北海道に居住しているアイヌ民族で組織し」[1]とあるが、「アイヌ民族の尊厳を確立する」という点で、本州やその他の地域に居住しているアイヌの人々も含め、また北海道アイヌ協会の会員でないアイヌの人々も含め、アイヌ民族全体の利益を、事実上代表している。 北海道アイヌ協会の様々な事業により、その目的の達成をはかるものとなる。 事業内容北海道アイヌ協会の公式サイトからの転載である[1]。
組織総会毎年5月に定例総会がある。前年度の事業実績報告と収支決算報告の承認、今年度の事業計画案と収支予算案が採決され、役員の改選がなされる。 その他、重要議題が、総会で採決されている。「北海道アイヌ協会」への改名は、2008年5月16日の総会で決定された[2]。1984年5月27日の総会では、「アイヌ民族に関する法律(案)」が採択されている[3]。 理事会理事会があり、2009年4月1日では、理事が24名、副理事長が3名、理事長は1名いて、事務局6名、監事3名[4]となっていたが、 2018年5月29日時点での協会の構成は、理事が17名、副理事長が1名、常務理事が1名、監事3名、事務局8名、監事3名、各地区のアイヌ協会(50協会)、地区連合会(4連合会)、第一類正会員(団体会員50名)、第二類会員(第一類の構成員数を30で除した数)60名、となっている[5]。 2019年9月現在、2004年5月から加藤忠が6代目理事長[6]となっている。32年間、北海道ウタリ協会の理事長をつとめてきた野村義一が有名である。社団法人化された「北海道アイヌ協会」の初代理事長は、山本多助である[7]。 理事長が、北海道ウタリ協会の代表とみなされることも多いが、2001年8月6日に、当時の北海道ウタリ協会理事長笹村二朗が、自民党代議士の問題発言に対しての抗議に消極的であるという理由で、理事会において、27人中18人の賛成で解任されている[8]。 副理事長経験者では、秋辺得平(別名:成田得平)が、2009年9月26日に、副理事長を辞任し[9]、不適切会計で2010年2月1日に理事を解任されている[10]。 支部連合会・支部2019年4月26日現在[11] 2012年4月時点では、胆振・十勝・網走・釧路・根室・日高の支部連合会があり、支部は市町村単位で49支部、支部会員総数は3234人[12]、支部長会議が年1回開催となっていた。2019年9月現在では、各地区のアイヌ協会数は50、地区連合会は4となっており[5]、支部は次の通り[13]。
札幌アイヌ協会・江別アイヌ協会・千歳アイヌ協会・恵庭アイヌ協会
室蘭アイヌ協会・苫小牧アイヌ協会・登別アイヌ協会・伊達アイヌ協会・豊浦アイヌ協会・壮瞥アイヌ協会・白老アイヌ協会・厚真アイヌ協会・洞爺湖アイヌ協会・むかわアイヌ協会
平取アイヌ協会・日高アイヌ協会・新冠アイヌ協会・新ひだかアイヌ協会・三石アイヌ協会・浦河アイヌ協会・様似アイヌ協会・えりもアイヌ協会
函館アイヌ協会・八雲アイヌ協会・長万部アイヌ協会
旭川アイヌ協会・上川アイヌ協会
豊富アイヌ協会
網走アイヌ協会・美幌アイヌ協会・るべしべアイヌ協会・斜里アイヌ協会
帯広アイヌ協会・上士幌アイヌ協会・芽室アイヌ協会・幕別アイヌ協会・本別アイヌ協会・浦幌アイヌ協会
釧路アイヌ協会・釧路町アイヌ協会・厚岸アイヌ協会・弟子屈アイヌ協会・阿寒アイヌ協会・鶴居アイヌ協会・白糠アイヌ協会
根室アイヌ協会・別海アイヌ協会・中標津アイヌ協会・標津アイヌ協会・羅臼アイヌ協会 理事・監事一覧
概要アイヌに関する各種政策に対しアイヌの立場から批判・提言し、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律の制定には中心的な役割を担った。また明治時代以来の同化政策に対抗しアイヌ本来の文化・風習を守るための活動に取り組んでいる。 アイヌ語保存事業に取り組み、アイヌ語テキスト『アコロ・イタク』の発行を行っている。北海道アイヌ協会の支部の関係者が、アイヌ文化総合講座助成金で、2009年現在で14ヶ所でアイヌ語教室を運営している。 アイヌの伝統的儀式を、各支部やその他の関連団体の主催の元に実施している。9月に行われる「アシリチェップノミ」(新しい鮭を迎える儀式)を、北海道アイヌ協会千歳支部や札幌アイヌ文化協会で実施している。9月に根室市で行われる「ノッカマップ・イチャルパ」(慰霊祭)は北海道アイヌ協会根室支部が主催する[15]。 アイヌ文化の伝承・振興及び理解を図るために必要な領域として「イオル」の復活を提案し、北海道との話し合いで構想段階となっているが、白老町で実現の運びとなっている[16]。 北海道の区域外に居住するアイヌ認定事業[17]をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合せ[18]に基づき実施している。その際には、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料としている。 協会への批判[編集]アイヌ系日本人彫刻家の砂澤陣は、「最大のアイヌ団体である北海道アイヌ協会の行為が《弱者の自立心を奪い、補助金漬けにしながら、彼らを利用し、「まだまだ差別が存在する」と弱者利権を貪っている》」と批判している[19]。 沿革[編集]
脚注[編集]
関連項目外部リンクアイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(アイヌぶんかのしんこうならびにアイヌのでんとうとうにかんするちしきのふきゅうおよびけいはつにかんするほうりつ、平成9年5月14日法律第52号)は日本の法律。通称アイヌ文化振興法、アイヌ文化法、アイヌ新法。1997年(平成9年)5月8日に成立、同年5月14日公布[1]、同年7月1日施行[2]。この法律の附則2条により、北海道旧土人保護法(明治32年法律第27号)および旭川市旧土人保護地処分法(昭和9年法律第9号)は廃止された。この法律は、アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成31年4月26日法律第16号)により2019年(令和元年)5月24日[3]に廃止された。 概要この法律の目的は、1条に次のように定められている(条文中の括弧書きは省略)。 脚注
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