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今日の日記 | 民族・集団 シャクシャイン時代の北海道 | 歴史の背景など | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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民族 地域集団「北海道アイヌ」という概念は北方史研究者の海保嶺夫によって提唱され、北海道各地で共通の文化風俗を有する集団を指す。海保は、17世紀には有力首長(惣乙名)によって治められる大規模な地域集団が5つあったこと、そしてこの5つの集団は20世紀に河野広道が墓制の違いに基づいて行ったアイヌ民族の分類と大凡一致することを指摘し、これらの地域集団が「アイヌ民族の国家形成への胎動期というべき英雄時代の所産」であり、幕藩制国家によるアイヌ民族支配が強化される中で「単に風俗・習慣を共通する『系統』に変容してしまったもの」と論じる[1]。 海保の見解は多くの研究者に受け容れられているが、「共通の文化を有する集団」と「首長によって治められる政治的集団」を安易に混同しているとの批判もあり、北海道アイヌの地域集団については未解決の課題も多い。考古学者の大井晴男は「5つの地域集団」が存在したこと自体は認めつつも、それは「政治的集団」と見るべきではなく、「出自の違いに由来する文化的まとまりを有する集団」と見るべきである、と指摘している[2]。 シュムクル(サルンクル)シュムクルは、日高地方北部および胆振地方東部を居住地とする集団。「祖先は本州から移住してきた」という、他のアイヌ民族集団の中では見られない伝承を有しており、奥州藤原氏の崩壊を契機に北海道島へ移住してきた奥羽アイヌを先祖とする集団ではないかと考えられている[3]。17世紀には南のメナシクルと激しく対立し、この対立が後にシャクシャインの戦いへと繋がっていった。現代の北海道においてアイヌ民族人口が最も多い胆振・日高地方はシュムクルの居住地と一致しており、これはシャクシャインの戦いなどでシュムクルが松前藩に友好的であったためではないか、とする説がある[4]。 メナシクルメナシクルは、主に日高地方南部から十勝・釧路・根室一帯、すなわち道東一帯を居住地とする集団。道東一帯で栄えたトビニタイ文化人を母体とし、比較的遅れてアイヌ文化を受容した集団であると考えられている。17世紀には静内川の首長であったシャクシャインがシュムクルと抗争を繰り広げ、最終的には松前藩と開戦するに至った(シャクシャインの戦い)。また、18世紀には「メナシ地方」と国後島との間でクナシリ・メナシの戦いが起こるなど、メナシクルはアイヌ集団の中でも独立心が旺盛であった。考古学的には、メナシクルの居住地域にのみ「砦としてのチャシ」が集中して発見されるという特徴がある[5]。 石狩アイヌ(イシカルンクル)石狩アイヌは、シュムクルの居住圏である千歳川流域を除く石狩川流域一帯(ほぼ石狩国に相当する)を居住地とする集団。石狩川流域は擦文時代から鮭漁で栄えた地域であり、先住の擦文集団と後に移住してきた奥羽アイヌが交わる形で成立したのではないかと考えられている。シャクシャインの戦いでは貿易断絶を盾に取り屈服を求めてきた松前藩に対し、当時の首長ハウカセは「石狩アイヌは松前藩との交易がなくとも生活していける」と豪語するなど、北海道アイヌの中でもとりわけ土地・資源に恵まれた集団として知られていた。 内浦アイヌ(ホレバシウンクル・ウシケシュンクル)内浦アイヌは、胆振地方西部から渡島半島東部の内浦湾一帯を居住地とする集団。シャクシャインの戦いの際にはメナシクルと密かに連絡を取り同盟関係を結ぶなど、太平洋岸の諸集団と密接な関係を有していた。しかし、松前を中心とする和人地に近かったがために早くからアイヌ人口の減少が始まっており、その起源や文化については不明な点が多い[6]。 その他以上の4つの集団に加え、海保は「余市アイヌ」という集団も取り上げているが、この集団は実は樺太アイヌの別派と見るべきとの説が大井晴男より出されており、本記事では取り上げない。また、北海道島内には以上の集団の他にも、大小様々な多数のアイヌ集団が存在していたと考えられるが、未だ明らかになっていない点が多い。 内浦アイヌ(うちうらアイヌ)は、17世紀に北海道の内浦湾(噴火湾)西岸の渡島半島側一帯に居住していたアイヌ民族集団の一つ。「内浦アイヌ」という名称は歴史学者の海保嶺夫による命名であり、アイヌ民族自身による自称は記録されていない。ただし、18世紀に北海道全域を踏破した蝦夷通辞の上原熊次郎は、内浦湾西部にホレバシウンクル・ウシケシュンクルと呼ばれる集団がいたことを記録しており、これらの集団が内浦アイヌの後裔ではないかと見られる。 概要『津軽一統志』にはシャクシャインの戦いが起こった頃、内浦湾西部(現在の尻岸内から長万部一帯)は惣乙名アイコウインの「持分」であったと記されており、この領域が「内浦アイヌ」の居住地域であったと考えられている[1]。ただし、『寛文拾年狄蜂起集書』の記述によると、この頃の内浦湾西部(白老以西)は非常に空屋が多く、シュムクル・メナシクル・イシカルンクルといった大勢力に比べ、その勢力は小規模であった[2]。 同じく『寛文拾年狄蜂起集書』によると、シャクシャインの戦いにおいてアイコウインは表面上松前藩に従っていたが、シャクシャインが松前藩に対して勝利を収めた時にはこれに合流する予定であったという。そのためアイコウインは密かに道東のメナシクル(「奥下」)と連絡を取り、松前藩に対してスパイも放っていた。しかし、クンヌイ(国縫)の戦いでシャクシャイン軍が敗れたことによってアイコウインの意図は挫かれ、内浦アイヌが松前藩に対して公然と叛旗を翻すことはついになかった[3]。 シャクシャインの戦い後の内浦アイヌについては不明な点が多いが、18世紀に北海道を探検した上原熊次郎は次のような記録を残している。 この記述から、かつてアイコウインによって統率されていた内浦アイヌは、18世紀にはウシケシュンクル・ホレバシウンクルという集団としてアイヌ民族の間では認識されていたことがわかる。 シュムクル(スムンクル、アイヌ語: sum-un-kur)とは、胆振から日高北部にかけての太平洋沿岸地域に居住するアイヌ民族集団の名称。17世紀には東で接するメナシクルと抗争を繰り広げたことで知られるが、その指し示す範囲については諸説ある。 その本拠地(沙流郡波恵村)から、ハエクル(ハイクル,アイヌ語: hay-kur)、サルンクル(アイヌ語: sar-un-kur)という名称でも知られる[注 1]。 アイヌ語で「西の人」の意である[3][4][5]。「スム[・レラ]」は本来「西風」を意味する単語で、太平洋岸のアイヌが河川を境として西風が吹いてくる方角(=西)を「スム(シュム)」と呼んだことから、転じて「西」を意味する名詞となった[6]。 「スム(シュム)」という言葉は日高東部や道東一帯の地名において多く用いられており、本来は広域を指す名称ではなかった。シャクシャインの戦いの頃は首長オニビシに率いられた「ハエクル(ハイクル)」という集団がおり、これが後のシュムクルに繋がる集団であると見られる[注 2]。 松前矩広による『正徳五年松前志摩守差出候書付』(1715年)では、アイヌの集団の一つとして「シモクル」をあげ、アイヌ語で「西衆」を意味するとしている[7]。蝦夷通辞の上原熊次郎は、著書『蝦夷地名考并里程記』における「シビチヤリ」の項において、「ニイガプよりシラヲイ辺まての蝦夷をシユムンクルといふ」としており、名称について「西のもの」という意味であるとしている[8]。この記述によると、新冠から白老周辺にかけての太平洋沿岸地域がシュムクルの居住範囲ということになる。 アイヌが土葬墓に立てるクワ(墓標)には地域ごとに違いがある。各地の墓標を調査した河野広道によると、当時静内から千歳・室蘭にかけての一帯にサルンクル型[注 3]の墓標が分布していた。東端の静内ではメナシクル型の墓標と混在しており、また室蘭より西の有珠においてもサルンクル型の墓標が混在していた。男性の墓標は矢尻のような形状であり、また女性の墓標は上部に穴があけられ、針の頭のような形をした太い木であるという。またサルンクルについて、墓制のほか伝承や風習の面でも隣接するアイヌ集団と大きく異なる特徴を持つとしている[9]。 歴史10世紀以後、北海道太平洋沿岸地域にはカムチャッカ半島・千島列島に繋がる「太平洋交易集団」が成立しており、和人からは「東の方角の者」の意で「日の本」と呼称された。この「太平洋交易集団」の一部がシュムクルの先祖になったと見られる[10]。 シュムクルは「祖先は本州から移住してきた」という他のどのアイヌも持たない独自の始祖伝承を有しており、本州から移住してきた奥羽アイヌを核として成立した集団ではないかと考えられている[11]。 シュムクルは次第に東で接するメナシクルと対立するようになり、1653年にはハエクルの首長オニビシ[注 4]がメナシクル首長カモクタインを殺害するという事件が起こった。カモクタインの後を継いだシャクシャインはオニビシを殺害し、更に松前への攻撃を計画したが敗れ、謀殺された(シャクシャインの戦い)。 シャクシャインの戦い以後、場所請負制の下で松前藩によるアイヌ民族の統制は強化され、シュムクルもオニビシのような首長を生む余地はなくなった。近現代北海道においてアイヌ民族の人口密集率が高いのは胆振・日高地方であるが、これはシュムクルがメナシクル・石狩アイヌなどと比べ松前藩に友好的であったためではないか、とする説がある[12]。 メナシクル(メナスンクル、メナシウンクル、アイヌ語: menas-un-kur)とは、静内以東の太平洋沿岸地域などに居住するアイヌ民族集団の名称。 「シャクシャインの戦い」でシャクシャインが率いていた集団が「メナシクル」とされるが、その指す示す範囲については諸説ある。 定義「メナシ」の原義は「[東または南から吹く]強風」や「時化を呼ぶ風」などで[2]、太平洋沿岸地域のアイヌが河川を境として「東風の吹いてくる方角」を「メナシ」、その対岸を「スム」と呼んだ事から転じて、「メナシ」は「東」を意味するようになった。 「イシカリ(石狩)」や「ソウヤ(宗谷)」といった地名と違い、河より東をメナシ、西をスムと呼ぶのは道東で広く見られることで、「メナシ」は本来的には広範囲(道東一帯)を指す地名ではなかった。アイヌが「メナシ」という地域名を用いるようになったのは、和人による地域区分を逆輸入したためではないかとする説もある[3]。 「メナシクル」の範囲について、『津軽一統志』は以下のように記す。 この記述から、シャクシャインの時代には日高の静内から釧路・厚岸に至るまでの広大な一帯が「メナシクル」の範囲であったと考えられている[6]。この「メナシクル」が一人の惣乙名(シャクシャイン)によって治められる政治的集合体であったとする説もあるが、近年ではシャクシャインの勢力はより限定されたものであったとする説もあり[7]、大井晴男は実際のシャクシャインの勢力圏は静内川・捫別川流域一帯に限られていたと想定する[8]。 また、シャクシャインの戦いから約百年後、蝦夷通辞の上原熊次郎もメナシクルの分布について記述している。 この記述によると、シャクシャイン時代のメナシクルは日高南部に居住する集団と十勝〜根室一帯に居住する集団に分かれており、前者を「メナシウンクル」、後者を「シメナシュンクル」と呼んでいたという。ここで言う「シメナシュンクル」の領域は和人が言う所の「道東」とほぼ一致する[10]。 アイヌの墓標を調査した河野広道によると、当時静内以東の日高南部から釧路・網走にかけての一帯にメナシクル型の墓標が分布していた。男性の墓標はほとんどがY字型の股木であるが、女性の墓標は地域によって二分される。十勝では上の方にくびれのある太い木となっており旭川のものに近い形状であるのに対し、日高や釧路・網走では丁字型の木であり、内浦湾沿岸や石狩湾周辺のものに近い形状である[11]。 また、考古学的には「メナシクル」の領域にのみ「砦」としての性格を持つチャシが発見されている。これはメナシクルが日高山脈以西より遅れてアイヌ文化を受容した集団を母体としており、後に「アイヌ化」する過程で交易を巡って抗争が起こったためとする説がある[12]。 歴史史料上に始めて「メナシ」という単語が登場するのは17世紀初頭のことで、1618年のアンジェリスの報告には以下のようにある。 また、『新羅之記録』には1615年に「東隅」のニシケラアイヌが松前にやってきたことが記録されているが、この「東隅」は「メナシ」を意訳したものではないかと見られている。盛岡藩の『雑書』には、1644年にメナシ(原文では「目無」ないしは「妻無」と表記)のアイヌが交易のため田名部に来たことが記録されている[14]。寛文2年(1662年)に刊行された『新改日本国大絵図』(扶桑国之図)では、「ゑぞのちしま」の地名として「めなしふろ」(原文ママ)が記載されており、メナシクルのこととされる[15]。1654年頃の刊行とされる『日本国之図』にも、同様に「めなしふろ」の記載が見える[16]。 16世紀半ばからは西隣のハエクル(シュムクル)との勢力争いが激化し、1653年にはメナシクルの惣乙名カモクタインがハエクルの惣乙名オニビシに討たれるという事件が起こった。両者の争いは一時松前藩の仲介によって収められたものの後に再燃し、やがてオニビシがカモクタインの後を継いだシャクシャインに討たれるに至った。続いてシャクシャインは松前藩打倒のため松前まで進軍した(シャクシャインの戦い)が敗れ、シャクシャインは謀殺された[17]。 シャクシャインの戦い以後松前藩によるメナシクルの統制はより一層進み、それまで松前藩の力が及んでいなかった根室以東の地域も影響下に入った。1789年にはこのような北海道東端・国後島に居住するメナシクルがクナシリ・メナシの戦いを起こしたが、これも松前藩によって鎮圧された。 松前矩広による『正徳五年松前志摩守差出候書付』(1715年)では、アイヌの集団の一つとしてメナシクルをあげ、アイヌ語で「東衆」の意であるとしている[18]。
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