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今日の日記 夷狄の商舶往還の法度 歴史の背景など

夷狄の商舶往還の法度(いてきの しょうはくおうかんのはっと)は、16世紀渡島半島において取り決められた講和[1]。夷狄の商舶往来の法度とも呼ばれる[2]

渡島半島東部シリウチ(現上磯郡知内町)一帯に居住するアイヌの首長チコモタイン(チコモタイヌとも[3])と、半島西部セタナイ(現久遠郡せたな町)一帯に居住するアイヌの首長ハシタイン(ハシタイヌとも[4])が、安東舜季立ち会いの下で[5]松前大館の城主蠣崎季広と結んだ講和である。『新羅之記録』によると当時の季広は、アイヌの首長に対して財宝を分け与えたことから神位得位(アイヌ語:kamuy-tokuy、「神のように素晴らしい友」の意)と称されたという。この講和の際、チコモタインは「東夷尹」(ひがしえぞのかみ)、ハシタインは「西夷尹」(にしえぞのかみ)をそれぞれ称する。またハシタインは蠣崎氏の拠点の一つである上ノ国(天河)へと移住している。両者はそれぞれ道南端における東夷(太平洋側アイヌ)と西夷(日本海側アイヌ)の首長で、東夷は14世紀の文献『諏訪大明神絵詞』における蝦夷の三類のひとつである「日ノ本」、西夷は同じく「唐子」に相当するとみられる[6]

この講和によって、他国の商人との交易において蠣崎季広が徴収した関銭の一部をチコモタインとハシタインに支払うこと、シリウチから天河までの地域より北東を蝦夷地とし和人の出入りを制限すること、渡島半島南西部の松前と天河は和人地としアイヌの出入りを自由とすること、シリウチの沖または天河の沖を船が通過する際は帆を下げて一礼することが定められた[7]。この内容については、中世瀬戸内海における海賊の「海関」との類似性から、アイヌによる「海関」の設置を蠣崎季広が認める代わりに交易の安全性をアイヌ側が保障するという取り引きであったとする大石直正の説がある。

小玉貞良によるアイヌ絵『ウイマム図』

ウイマムは、アイヌが近隣の首長との間で行った交易形態。後に松前藩がアイヌの乙名を藩主に拝謁させる儀式へと転化させた。

概要

ウイマムの語源としては、日本語の「ういまみえ(初見)」「おめみえ(御目見得)」の転訛説とアイヌ語の「交易」を意味する語とする説がある。

交易形態としてのウイマム

本来は時を定めてアイヌの乙名が毛皮海産物・工芸品などの特産物を積んだ特別な船(ウイマムチップ)で松前を訪問し、領主に拝謁してこれらを献上して、松前藩側からや衣服を得て帰郷する形態であった。これは後に、知行主が知行地に交易船を派遣する商場(場所)知行制に変わっていった。

拝謁の儀式としてのウイマム

元和元年(1615年)、アイヌの乙名が松前藩主・松前公広に拝謁して海獺の毛皮を献上したのを機にアイヌによる松前藩へのウイマムが開始されたが、後に松前藩(公儀御料時代は松前奉行)が蝦夷地統治の手段として用いられるようになると、アイヌが藩主に謁見する「謁見礼」「目見得礼」へと転化していった。松前奉行支配の文化13年(1816年)は蝦夷地の場所を5つに分けて、漁閑期にあたる7月から9月に交替でウイマムを行わせた。また、幕府の巡検使に対するウイマムも行われた。

アイヌからの献上品は毛皮や海産物・工芸品など、松前藩・松前奉行からの下賜品は拝謁者の身分によって異なるものの、陣羽織漆器煙草・酒などであった。

地方知行(じがたちぎょう)とは、江戸時代将軍あるいは大名が家臣に対してとして与える知行を、所領(地方(じかた))と呼ばれる土地)およびそこに付随する百姓の形で与え、支配させること。将軍が大名に土地を与える場合には特に大名知行(だいみょうちぎょう)と呼ばれている。

ここにおける地方知行の解説に大名知行は含めないが、必要に応じて大名知行の例についても言及するものとする。

概要

一般的に地方知行をするのは上中級の幕府旗本および御家人、諸大名の上級家臣である。

知行のために給付された土地を知行地(ちぎょうち)もしくは給所(きゅうしょ)と呼んだ。大名知行地は領分(りょうぶん)と呼び、将軍の家臣である大名は領主(りょうしゅ)と呼ばれていた。それに対し、旗本知行地は知行所(ちぎょうしょ)と呼んだ。さらに幕府の御家人の場合は、格上である旗本の知行地である給所と区別する意味で給地(きゅうち)と呼称させた。これらは、石高単位で与えられたので、実際の行政単位と合致しないことも多く、さらには、1集落を複数の地頭で分割する相給が行われることも珍しくなかった。

彼らは地頭と呼ばれたが、中世の地頭とは異なり、職務上の必要による例外を除いては、城下町(幕府直属の旗本・御家人の場合は江戸)に在住する義務を負っていた(例外として、仙台藩では各家臣が仙台城下町と知行地との間を参勤交代していた)。

また、旗本や大藩の上級家臣の中には独自の法制(地頭法)を持つ者もいたが、徴税権司法権、その他の行政権などの所領に対する支配権(知行権)の行使は主君である将軍・大名によって規制されるのが一般的であり、時代が進むにつれてその傾向が強くなった(もっとも、所属する主家の方針や地頭である家臣の方針によってその強弱に格差があった)。

これに対し、所領ではなく蔵米の形で与える知行を蔵米知行と呼ぶ(なお、大名知行の場合、一部が蔵米知行である場合は存在したが、知行全てが蔵米支給であった大名は存在しなかった)。

明治維新後の版籍奉還によって、大名知行を含めた全ての地方知行は蔵米知行に一元化されることとなった。

地方召上と地方直

将軍や大名が家臣の知行を地方知行から蔵米知行に改めることを「地方召上(じかためしあげ)」と呼び、逆に蔵米知行から地方知行に改めることを「地方直(じかたなおし)」と呼んだ。伝統的に武士階層は土地(地方)をもって所領を与えられることを望んだことから、地方召上に懲罰的要素を含む場合や反対に地方直に恩賞的要素を含む場合もあった。

江戸時代初期には諸藩においては地方知行を行う例が多く蔵米知行は下級家臣に限られていたが、次第に大名の支配権力と財政基盤の強化のために上級家臣に対しても地方召上を行って蔵米知行に変更されることが多くなった。元禄時代に書かれたと考えられている諸藩諸侯の解説書『土芥寇讎記』によれば、当時243あった藩のうち地方知行が行われていたのは外様大名系の大藩を中心とした39藩に過ぎなかったという。ただし、前述のように地方召上には懲罰的な意味合いを持つ場合もあったために、移行の際の不手際がお家騒動に発展する可能性もあった。

これに対して比較的余裕があった幕府では、地方直を行って旗本の知行を蔵米知行から地方知行に改めることでこれまでの働きに対する恩賞とし、旗本たちの歓心を買うとともに将軍への忠誠を高めようとした。

徳川家康関東移封後に伴う天正19年(1591年)の所領の再配分と関ヶ原の戦い大坂の陣の両戦後に行った親藩譜代大名および旗本に対する広範囲の加増・転封も地方直としての側面を持つが、幕府が地方直を目的として大規模に行ったものとしては、寛永10年(1633年)と元禄10年(1697年)に行った元禄地方直の2例がある。

地方知行の性格

地方知行の性格については歴史学者の間でも意見が分かれるが、大きく分けると、土地で知行を与える行為を中世のものとみなし、地方知行を中世の制度の名残として次第にそこから脱却して近世的な蔵米知行に移行していった考える説と、大名知行がその知行の全部あるいは一部分を必ず土地をもって与えていることから地方知行を近世幕藩体制の根幹とみなして蔵米知行はそれを補うものに過ぎないとする説の2つがある。

商場知行制

なお、諸藩のうち松前藩のみは一部の例外を除き大半が米の収穫のない土地を領有していたため、中級から上級の家臣に対して蝦夷地の特定の区域を「商場(あきないば)」と称して現地の蝦夷アイヌ)との交易権を割り当て地方にかわる知行として与えていた。これを商場知行制(あきないばちぎょうせい)と呼ぶ。商場はおおむね蝦夷の人々の漁猟圏(イオル)にあわせ区分されており、知行主は年に一、二度、商船を送って交易し、入手した産品を松前城下の商人達へ売却し収入を得ていた。時代がすすむと商人に手数料を支払い交易を委ねるように変わっていった。これは18世紀初頭に場所請負制に移行することとなる。商場知行制成立前については、城下交易制が行われていた。

なお、下級藩士に対しては他藩と同様蔵米知行であった。

場所請負制(ばしょうけおいせい)は、江戸時代松前藩政下における家臣の知行形態である商場(場所)知行制から発生した、蝦夷地特有の流通制度。

発生の背景

松前藩では、地勢的に米の収穫が望めないため、藩主が家臣に与える俸禄石高に基づく地方知行ではなく、いわゆる商場(場所)知行制をもって主従関係を結んでいた。この制度は、蔵入地以外の蝦夷地及び和人地において給地に相当するものとして漁場およびアイヌとの交易地域である商場(場所)を設け、そこでの交易権を知行として家臣に分与する制度である。

和人地の給地では漁民からの現物税の徴収権があり地方知行とほぼ同様な形態であったが、和人地の大半は松前藩の蔵入地だったため、家臣の大半の給地は蝦夷地にあった。また、その給地内においても採金、鷹待、鮭鱒漁、伐木等の権利は全て藩主に属した。知行主に認められていたのは、年1回自腹で船を仕立てて交易することのみであった。

このような状況下で潤沢な資本力を持つ近江商人などが松前に出店を置いて本格的に進出して来た。知行を持つ家臣たちは、商人から交易用の物資や生活費までもを借りて交易に従事し、その結果得た商品を商人に渡して償還するようになった。しかし、次第に蝦夷地の交易が複雑化して資本的・技術的に武士の手に負えなくなって負債がかさみ、交易権そのものを「場所請負人」の名目で商人に代行させて知行主は一定の運上金を得るという制度に18世紀初頭移行した。これが場所請負制度である。

場所請負制成立後の行政

当時の北海道樺太および北方領土の行政は、概ね知行地(場所)ごとに地域区分が行われ、本州以南に準じて郷村制が敷かれた。知行地について、文献には「場所」のほか「」の表現も見られる。場所請負人は、知行主に代わって行政権を行使した。また、アイヌは百姓身分に位置づけられていた。オムシャでは、老病者や子供に対し薬や御救米を支給(介抱)し、地元の有力者を役蝦夷惣乙名乙名脇乙名惣小使小使土産取などの役職[1])に任命した。役蝦夷は、藩や幕府からの掟書(法律)を平蝦夷(住民)に伝達したほか、住民を調べ宗門人別改帳戸籍)の作製(江戸時代の日本の人口統計)、年貢米の代わりとなる獣皮など地元産品の納付や、労働力を把握し夫役会所運上屋番屋等の雑役など様々)への動員などの業務をこなした。

なお、アイヌの漁撈には、雇用による漁場労働や自分稼ぎ(アイヌによる自営業)など様々な形態が存在した。当時は和人社会でも小作農をはじめ丁稚奉公住み込み女中などの年季奉公が当然の時代であり、生活は決して楽ではなかったようである。

松前藩治世では和語の使用や和装などは禁止されたが、奉行の治世では解禁・推奨(和風化政策)し、和装した場合などに衣類や鬢付け油などの褒章が支給されたという。和風化は役蝦夷を中心に行われたが、平蝦夷にはあまり普及しなかった[2]。「和風化」の普及率は地域差があり、場所経営に携わる和人担当者によっては、あまり積極的に行わない地域や、逆になかば強引に行われた例もあったと思われる。また、第二次幕領期以降は、蝦夷地で流行する疱瘡対策として住民に種痘なども行われた[3][4][5][6]

山丹交易(さんたんこうえき)とは、江戸時代に来航した山丹人(山旦・山靼とも書く。主にウリチ族や大陸ニヴフなど黒竜江(露名:アムール川)下流の民族)からの中国本土清朝の産品が、主として蝦夷地樺太(露名:サハリン)や宗谷アイヌを仲介し松前藩にもたらされた交易をさす。広義には黒竜江下流域に清朝が設けた役所と山丹人を含む周辺民族との朝貢交易から、松前藩と樺太北東部のウィルタなどのオロッコ交易も含む。

山丹人とは

山丹(さんたん)の語は、当初、アジア大陸北部から樺太に来航する人びとと彼らが居住する地域(具体的には黒竜江下流域)を指していた。語源は、ニヴフ語のヤントという語にあるといわれる。それがアイヌ語のシャンタ、ないしサンタより日本に伝わって山丹(山靼、山旦)と表記されるようになったという。この語が日本の史料に登場するのは18世紀であり、18世紀後半に普及したが、それ以前はこの地方は「東韃」と呼称されていた[1]文化6年(1809年)の間宮林蔵の調査により、カザマーの村落からジャレーの村落にいたる地域に居住していることが判明した[1][注釈 1]。現在のウリチ[注釈 2](ウルチ、もしくはオルチャ)はその末裔と考えられる[注釈 3]。なお「山丹交易」という用語は、1928年昭和3年)日本における朝鮮史研究の開拓者である末松保和により初めて使用された[2]。ちなみに、山丹人が住む地域は山丹国とも呼ばれていた。

概要

タマサイ(アイヌ女性のネックレス)。山丹交易で得たガラス玉が使用されている。

山丹交易以前は、平安時代安倍氏奥州藤原氏十三湊を拠点とし水軍を擁した鎌倉室町期の蝦夷管領安東氏など奥羽の豪族が、日本海に面する大陸と直接取引した北方貿易が行われていた。

山丹交易は、1680年代当時、松前藩の交易船が行き着く蝦夷地最奥の宗谷(現在の北海道宗谷総合振興局)においてアイヌを介して行われていた。宝暦年間(1751年 - 1763年)になると会所(運上屋)のある樺太南端の集落・白主(しらぬし、本斗郡好仁村白主)に交易船の派遣が始まり、寛政3年(1791年)より樺太場所が開設され交易は宗谷から白主や西トンナイおよび久春古丹に移った。

山丹人は、清朝に皮を上納する代わりに下賜された官服や布地、の羽、青玉などを持参して蝦夷地の樺太や宗谷に来航した。

一方、アイヌは猟で得た毛皮や、会所運上屋)で行われるオムシャなどで和人よりもたらされた鉄製品、等を、山丹人が大陸から持ち込んだ品々と交換した。また、18世紀半ばから山丹交易改革ころまでは、北樺太の近くに住む一部の樺太アイヌの中には山丹交易をするばかりではなく、幕藩体制役職を持ったまま間宮海峡を超えて黒竜江下流(デレン)に渡航し、直接貿易(朝貢交易)を行う者もいた。

記録に残るアイヌと和人の交易は、もともとは飛鳥時代阿倍比羅夫が国家の出先機関「政所」や「郡領」を置いた「後方羊蹄(しりべし)」に始まり、中世の安東氏や和人地蠣崎氏をなど経て、松前城下においても行われていた(城下交易制)。慶長8年(1603年宗谷に置かれた松前藩の役宅が宗谷と樺太を管轄するようになり、その後商場(場所)知行制に移りどちらも宗谷場所に含まれた。

山丹交易改革

文化4年(1807年)に蝦夷地が江戸幕府直轄領となり、それまでのアイヌの山丹人に対する負債が表面化し問題となった。従来の交易が、山丹人が交易品を貸し付けて、翌年にそれに見合う毛皮を取り立てる方式を採用しており、累積債務などが要因で、山丹人は借金のかたに樺太アイヌを山丹人の居住域に連れ去り下人として使役したり、家財を奪い取るなど軋轢が強まっていたからである。これは当時の東アジア地域では普通に見られた習慣だが、最上徳内などは、この負債はアイヌが松前藩からの山丹渡来品の催促や強要に応えるために、無理な買物をしたためだとも認識していた[3]。文化6年(1809年)に松前奉行支配下役元締の松田伝十郎が負債を調査し、アイヌが自力で返済不能の部分を江戸幕府が肩代わりするよう取りはからった[4][5]。これにより負債は完済するが、その一方、交易は白主会所扱いの直営となり、アイヌは従来のような来航する山丹人との直接交易を禁じられた。同時に、幕府(松前奉行)は、アイヌの大陸・黒竜江下流域の交易地デレンへの渡航と貿易(朝貢交易)も禁じた。

また、この改革以降、白主会所で行われる山丹交易は、山丹人にとって事実上江戸幕府に対する朝貢の場となった。

なお、間宮林蔵により口述され、村上貞助によって筆録されて文化8年(1811年)に幕府に提出された『東韃地方紀行』中巻(「デレン在留中紀事」)には、黒竜江下流のデレンの集落に清朝によって設けられた「満州仮府」における山丹交易や北方諸民族が清朝の役人に進貢するようすが詳細な解説文やイラストレーションによって描写されている[6][7]

文政5年(1822年)、蝦夷地は松前藩に復領し、安政元年(1855年)にまた幕府直轄領となっても交易は引き継がれた。間宮海峡の対岸では、1860年に清国とロシア等の結んだ不平等条約のひとつ北京条約により山丹人の住む黒竜江下流が割譲されロシア領沿海州となるが、慶応3年(1867年)まで山丹人が白主会所に来航した記録がある。山丹交易は幕府崩壊までつづいたが、1868年成立の明治政府によって廃止された。現在も、黒竜江下流域にはアイヌの子孫を名乗る者もいるが、事実であれば、彼らは山丹人に連れ去られた者たちの忘れ形見であろう。

山丹服

山丹服

山丹交易で得られた中国本土の物産は、東廻り航路西廻り航路を通じて江戸大坂などにも運ばれ、珍重された。そのなかで特に有名なのが「山丹服」ないし「蝦夷錦」と称される華麗な刺繍の施された満州族風の清朝の官服であった。これは、松前藩の藩主から幕府の将軍に献上されたこともあった。

沈黙交易(ちんもくこうえき、: Silent Trade, dumb barter, depot trade)は、交易の形態のひとつ。日本語では無言交易沈黙取引無言取引などの表記も見られる。共同体が、外部とのコミュニケーションを出来るだけ避けつつ外部から資源を得るための方法として、世界各地で用いられた。

概要

一般的には、交易をする双方が接触をせずに交互に品物を置き、双方ともに相手の品物に満足したときに取引が成立する。交易の行なわれる場は中立地点であるか、中立性を保持するために神聖な場所が選ばれる。言語が異なるもの同士の交易という解釈をされる場合があるが、サンドイッチ諸島での例のように言葉が通じる場合にも行なわれるため、要点は「沈黙」ではなく「物理的接近の忌避」とする解釈もある[1]

フィリップ・ジェイムズ・ハミルトン・グリァスンは、世界各地の沈黙交易を研究し、人類史における平和が、市場の中立性や、異人(客人)の保護=歓待の仕組みに深くかかわっていると述べた[2]カール・ポランニーは、沈黙交易について、掠奪による獲得と交易港による平和的な交易の中間に位置する制度とした[3]。ピーター・バーンスタインは貿易商人たちに捕えられて奴隷にされることを避けるためと推測しており[4]、商人の側としてはアフリカ人のもたらすを何としても欲しいため、この奇妙なやり方に従うしかなかったとしている。

日本における研究

日本での沈黙交易の最古の記録としては、『日本書紀』の斉明天皇6年(660年)3月の条における阿倍比羅夫粛慎と戦う前に行なった行為があげられる。鳥居龍蔵は北東アジア全般に沈黙交易が存在したと論じた[5]南方熊楠は、中国の『五雑俎』にある『歳時記』や『番禺雑記』の記述から、鬼が夜に市を開くという鬼市が無言貿易(沈黙交易)を指すと述べた。また南方は『法顕伝』に記述がある師子国(セイロン)の鬼神との取り引きも無言貿易とした[6]柳田國男大菩薩峠六十里越で黙市が行なわれたとし、他に『諸国里人談』や『本草記聞』の記述にある交趾国奇楠交易を例としてあげた。かつて栗山日光、大菩薩峠などの峠路にあった中宿で行なわれていた無人の交易を沈黙交易とするかどうかは、研究者の間で解釈がわかれている[7]岡正雄椀貸伝説コロポックルの伝説、『譚海』のアイヌ、『梁書』や『唐書』の記述にある中国の鬼市を無言交易とした[8]

椀貸伝説を「沈黙交易」と見なすかについては、戦前から論争があった。1917年(大正6年)に鳥居龍蔵が椀貸伝説を沈黙交易であると指摘すると、1918年(大正7年)に柳田は反論し、椀貸伝説は異郷観念の表現形態であり、竜宮伝説や隠れ里伝説に類する信仰現象であるとした。椀貸伝説の沈黙交易説は戦後も論争が続き、1979年栗本慎一郎は『経済人類学』において椀貸し伝説は沈黙交易であり、さらに交易の原初的形態と指摘した[9]。沈黙交易を交易の原初的形態であるとする説に対しては、同年に岡正雄は沈黙交易は交易の原初的形態ではなく交換の特殊型であるとし、客人歓待を前提とした好意的贈答の習慣であると指摘した[8]

新井白石が『蝦夷志』に記録しているアイヌ同士の交易も沈黙交易とされ、道東アイヌは米、塩、酒、綿布など、千島アイヌはラッコの皮などを交換に用いた。アイヌによる沈黙交易は、この他に樺太アイヌツングース系民族山丹人山丹交易)、アイヌとオホーツク人[10]ニヴフなどの間にも行われている。14世紀の中国で熊夢祥中国語版が書いた『析津志中国語版』にもその記録がある[11]。アイヌ伝説に登場する小人・コロポックルの起源が千島アイヌの沈黙交易にあるとし、千島アイヌの沈黙交易は疱瘡をはじめとする疫病の侵入を防ぐために行われたという説もある[12]

イタオマチㇷ゚アルファベット表記:ita-oma-cip)とは、アイヌが伝統的に建造し、航海に使用していた舟艇である[1]

概要

名称は、アイヌ語で「板のある船」を意味するイタ・オマ・チㇷ゚に由来する(イタは、日本語「板」からの借用語)。カツラセンノキなどの大木を刳り抜いた丸木舟に舷側板を取り付けることで大型化させた、縫合船の一種である[1]。アイヌは一般的に河川や湖沼など内水を航行する場合は大木を刳り抜いただけのチㇷ゚(丸木舟)を用いたが、他地域との交易などで海上を航行する際は、このイタオマチㇷ゚を用いた[1]

造船法

以下は、江戸時代後期に秦檍麿らがアイヌ文化解説の目的で作成した絵巻物『蝦夷生計図説』を参考とした、イタオマチㇷ゚建造の手順である[2][3](「蝦夷生計図説」以外の資料を基にした記述は、脚注に記す)。

用材伐採

まず山中に分け入り、大木を探し求める。用材として適当な木を見出したら、樹下に祭壇を組み、カムイノミを行う。山の神、木の魂にイナウを捧げ、用材を得る許しを求めて祈る。その上で伐倒し、丸太をその場で適切な長さに切断した上で掘削作業に入る[1]

船底造り

明治20年代の、アイヌの丸木舟。イタオマチㇷ゚は、丸木舟に舷側板を継ぎ足した構造である

イタオマチㇷ゚の構造の基本は、舟敷となる丸木舟である。一般的に「木の北側は日が当たらず成長が遅いので、年輪が詰まり、木質も硬くて重い」とされるため、伐倒以前の木が北向きだった部分が「船底」として設計される。作業に都合がいい位置に丸太を回転させた上で掘削作業に入る[4]。工具には伐採用ののほかに、モッタと呼ばれる小型のちょうな、あるいは研ぎあげたが用いられる[1]

船底部分の大まかな形が削り上がったら、山中からおろして村落に運び込み、刳り抜いた内部に横木を嵌め込むことで舷側部分が内側に倒れ込む失敗を防ぐ。同時にムシロなどを巻いて急激な乾燥を避けつつ寝かせ、狂いが収まるのを待つ。その上で船内に水を注いで「水平」を確かめ、完成時の外観や用途をイメージしつつ、丹念に削りなおして修正する。

舷側板張り

舟敷が完成したら、チㇷ゚ラㇷ゚イタ(舷側板。直訳すれば「舟の翼の板」)、や艫、舳部分に取り付ける板、さらに板を船体に取り付けるためのテシカ(縄)を用意する。この縄の素材にはニベシ(正確な発音はニペㇱ。シナノキの樹皮)、エゾヤマザクラの樹皮、クジラの髭の3種類があり、北海道太平洋沿岸ではシリキシナイ(現在の函館市恵山町)からビロウ(広尾町)までの地域はニベシや桜の樹皮が使われ、ビロウからクナシリ(国後島)までの地域ではクジラの髭が多く使われた。

まず基礎となる舟敷の舷にいくつもの孔を穿って縄を通し、その縄を舷側板にも穿っておいた孔に通すことで縫い付ける。新たな舷側板をあてがうことを繰り返し、船体の大まかな形を模る。板同士の隙間にはを詰め込んで漏水を防ぐ。船体が完成したところで、船首にイナウを捧げ、船魂を祀る儀礼・チㇷ゚サンケを執り行う[1]。 こうして作られた船体の大きさは200石積みの和船と同じくらい(約20トン)となる。ウイマム松前藩主との謁見行事)に赴く際の船はウイマムチㇷ゚と呼ばれ、特別な儀装が成される。

推進具

イタオマチㇷ゚の推進具は、カンヂと呼ばれるオールである。柄の中途に孔が開けられ、その孔をイタオマチㇷ゚の舷に取り付けた突起「タカマヂ」にあてがうことで固定する。和語で「車櫂」と呼ばれるシステムである。船体の胴の間にはカヤニ(帆柱)を船の進行方向と直角になる位置で2本立て、その間にカヤ()を張る。帆の材料は、シキナ(ガマ)で編んだゴザが用いられる。

その他、付属品

イタオマチㇷ゚のカイタ()は、股木に石を取り付け重量を増したもので、和船の碇に似ている。さらに船内の漏水をくみ取るため、ワッカケㇷ゚(水を汲み取るもの。淦取りのこと)が備えられる。ワッカケㇷ゚の語は訛って和人にも伝わり、北海道弁では淦取りをヘゲと呼ぶ。

航行術

海上に出帆する折は天候に留意し、晴天が続くと判断した上で海神に旅路の安寧を祈り、船出する。遠洋には漕ぎ出さず、必ず陸沿いに進むことを心掛ける。また夜間の航行は危険ゆえ憚られ、必ず日が暮れる前に到達できる距離を一日の進捗距離とした。

順風の折は帆に風を受けて「順風満帆」の状態で航行するが、横風の際は帆柱を傾け帆を操作することで、進行方向を安定させる。櫂を用いて漕ぐ際は、胴の間に敷かれた板に乗組員が座り、一人で船体左右の櫂をそれぞれ操って推進させる。だがビロウからクナシリまでの海域では、横に2人並び、一人が右側の櫂を、もう一人が左側の櫂を操ることで推進させる。この海域は海流が激しいため、一人ではとても左右の櫂を操れないためであるという[3]

歴史

大阪府大阪市平野区長原古墳群から出土した舟型埴輪。大阪歴史博物館所蔵

アイヌは近代にいたるまで文字の使用を受け入れなかったため、それ以前のアイヌ史考古学的な見地、あるいは和人はじめ他民族による文字資料からの考察が必要となる。イタオマチㇷ゚の起源も同様である。

日本本土においては、弥生時代より丸木舟に舷側板を取り付けて大型化した船が建造され始めたとされ、広島県福山市の御領遺跡からは、このタイプの船を描いたと思える土器片(弥生時代後期)が出土している[5]古墳時代古墳からは人物や動物、建造物など様々な事象を模して造られた埴輪が出土しているが、その中には舟を模した「舟型埴輪」があり、丸木舟に舷側板を取り付けた構造が表現されている。この「丸木舟に舷側板を足して容積を増す」造船法こそが和船の構造の基本であり、後の千石船(弁財船)も、航(かわら)と呼ばれる分厚い一枚板を舟底に据え、板を継ぎ足して全体を模る構造である[6]

 一方、アイヌ文化圏においては、北海道日本海沿岸、余市町フゴッペ洞窟で発見された続縄文文化期の洞窟壁画に、イタオマチㇷ゚を模したと思しき線画が描かれている。なお考古学者・瀬川拓郎の学説によれば、フゴッペ洞窟の壁画は、日本海を航行して古代の北海道に至り、その地で客死した日本本土の「古墳文化人」に手向けられた「古墳壁画」であるという[7]。それが事実なら、イタオマチㇷ゚の製法は日本本土から伝来したとも考えられる。

時代が下って8,9世紀頃、続縄文文化は「擦った」(こすった)ような模様の土器を使用する「擦文文化」へと進化する。擦文文化の担い手(アイヌの祖先)は干し鮭やワシの尾羽、毛皮などを商品として日本本土との交易活動に勤しみ、鉄器やコメ、漆器などを移入した[8]。交易活動の活性化には、大型の船舶の存在が予感される。一方、同時期の北海道オホーツク海沿岸では、北方の樺太方面から渡来した民族がオホーツク文化と呼ばれる別系統の文化を営んでいた。知床半島の松法川北岸遺跡(羅臼町)は8世紀頃のオホーツク文化人による村落址だが、火災に遭った住居跡から多数の炭化した木製品が出土している。この中から、構造船のミニチュアと思しき木製品も発見された[9]

チセの居住やイオマンテアットゥシの着用、イナウ漆器を用いたカムイノミなどの「いわゆるアイヌ文化」が成立したのは日本本土の平安時代末期から鎌倉期にかけてとされ、アイヌ文化の成立は日本本土との交易の活性化の影響が大きいとされる[10]。アイヌ文化成立期に作成されたと思われる丸木舟が、1966年苫小牧市郊外の勇払川河畔から出土している。この丸木舟は舷側にはいくつもの小穴が穿たれた「イタオマチㇷ゚」であり、船体にはアイヌ文様が彫り込まれ、同時に出土した櫂にはアイヌ特有の家紋であるシロシも確認された[11]

15世紀後半より北海道南部の渡島半島には和人の勢力下に入り、16世紀には松前氏の支配下となる。江戸時代初期の元和年間(1625年ごろ)、松前城下を訪れたイエズス会士の宣教師、ジェロニモ・アンジェリスは、和人とアイヌの交易で賑わう城下のさまを以下のように記録している[12]。(一部、内容意訳)

毎年、東部の方にあるミナシの国から松前へ百艘の船が乾燥した鮭と鰊を運んできます。大量のテンの皮をも持ってきますが、彼らはそれをラッコの皮といい、すこぶる高価に売ります。蝦夷ではなくラッコと称する島[note 1]におりますので、蝦夷人はそこに買いに行きます。 (中略)

蝦夷国の西のほうに向かうテシオの国からも松前へ蝦夷人が参りますが、それらの船は種々の物と共に中国品のようなドンキ(緞子)の幾反[note 2]をも将来します。 (中略)

蝦夷国の船は釘を使わないで、椰子の繊維のような物で作った縄で縫い合わされているのです。寄せ集めた板に多数の孔を穿って、それを縫い合わせるわけで、航海が終わると縫い目を解き、日に当てて乾かし、それから復た縫い合わせます。船の大きさはその一艘に日本の米の200石積める程度であり、その形は日本の船のようなものでございます。

江戸時代中期以降、場所請負制の浸透によりアイヌは和人の漁場に隷属され、交易圏も狭まっていくが、イタオマチㇷ゚は依然として建造され、航海や海での海獣猟などに用いられていた。寛政11年(1799年)、 蝦夷地の産物調査に参加した絵師の島田元旦(谷元旦)は、イタオマチㇷ゚での船旅を報告書『蝦夷紀行附図』に「蝦夷船渡海之圖」として描いているほか[13]、『蝦夷島奇観』や、明治初期に描かれた『明治初期アイヌ風俗図巻』には、イタオマチㇷ゚に乗り込み海獣猟や昆布採りに勤しむ人々が描かれている[14][15]

やがて同化政策や近代化によりイタオマチㇷ゚の建造や航行技術も失われたが、1989年秋辺得平釧路市在住のアイヌ系住民が国立民族学博物館の協力を得てイタオマチㇷ゚を復元させ[16]、以降、各地のアイヌ団体が続々とイタオマチㇷ゚の復元に取り組んでいる。2020年現在、北海道博物館、サッポロピㇼカコタン、新ひだか町アイヌ民俗資料館ウポポイなどに、展示用として復元されたイタオマチㇷ゚が存在する。

 
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