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今日の日記 民族・集団 歴史の背景など

地域集団

シャクシャイン時代の北海道

「北海道アイヌ」という概念は北方史研究者の海保嶺夫によって提唱され、北海道各地で共通の文化風俗を有する集団を指す。海保は、17世紀には有力首長(惣乙名)によって治められる大規模な地域集団が5つあったこと、そしてこの5つの集団は20世紀河野広道が墓制の違いに基づいて行ったアイヌ民族の分類と大凡一致することを指摘し、これらの地域集団が「アイヌ民族の国家形成への胎動期というべき英雄時代の所産」であり、幕藩制国家によるアイヌ民族支配が強化される中で「単に風俗・習慣を共通する『系統』に変容してしまったもの」と論じる[1]

海保の見解は多くの研究者に受け容れられているが、「共通の文化を有する集団」と「首長によって治められる政治的集団」を安易に混同しているとの批判もあり、北海道アイヌの地域集団については未解決の課題も多い。考古学者の大井晴男は「5つの地域集団」が存在したこと自体は認めつつも、それは「政治的集団」と見るべきではなく、「出自の違いに由来する文化的まとまりを有する集団」と見るべきである、と指摘している[2]

シュムクル(サルンクル)

シュムクルは、日高地方北部および胆振地方東部を居住地とする集団。「祖先は本州から移住してきた」という、他のアイヌ民族集団の中では見られない伝承を有しており、奥州藤原氏の崩壊を契機に北海道島へ移住してきた奥羽アイヌを先祖とする集団ではないかと考えられている[3]。17世紀には南のメナシクルと激しく対立し、この対立が後にシャクシャインの戦いへと繋がっていった。現代の北海道においてアイヌ民族人口が最も多い胆振・日高地方はシュムクルの居住地と一致しており、これはシャクシャインの戦いなどでシュムクルが松前藩に友好的であったためではないか、とする説がある[4]

メナシクル

メナシクルは、主に日高地方南部から十勝釧路根室一帯、すなわち道東一帯を居住地とする集団。道東一帯で栄えたトビニタイ文化人を母体とし、比較的遅れてアイヌ文化を受容した集団であると考えられている。17世紀には静内川の首長であったシャクシャインがシュムクルと抗争を繰り広げ、最終的には松前藩と開戦するに至った(シャクシャインの戦い)。また、18世紀には「メナシ地方」と国後島との間でクナシリ・メナシの戦いが起こるなど、メナシクルはアイヌ集団の中でも独立心が旺盛であった。考古学的には、メナシクルの居住地域にのみ「砦としてのチャシ」が集中して発見されるという特徴がある[5]

石狩アイヌ(イシカルンクル)

石狩アイヌは、シュムクルの居住圏である千歳川流域を除く石狩川流域一帯(ほぼ石狩国に相当する)を居住地とする集団。石狩川流域は擦文時代から鮭漁で栄えた地域であり、先住の擦文集団と後に移住してきた奥羽アイヌが交わる形で成立したのではないかと考えられている。シャクシャインの戦いでは貿易断絶を盾に取り屈服を求めてきた松前藩に対し、当時の首長ハウカセは「石狩アイヌは松前藩との交易がなくとも生活していける」と豪語するなど、北海道アイヌの中でもとりわけ土地・資源に恵まれた集団として知られていた。

内浦アイヌ(ホレバシウンクル・ウシケシュンクル)

内浦アイヌは、胆振地方西部から渡島半島東部の内浦湾一帯を居住地とする集団。シャクシャインの戦いの際にはメナシクルと密かに連絡を取り同盟関係を結ぶなど、太平洋岸の諸集団と密接な関係を有していた。しかし、松前を中心とする和人地に近かったがために早くからアイヌ人口の減少が始まっており、その起源や文化については不明な点が多い[6]

その他

以上の4つの集団に加え、海保は「余市アイヌ」という集団も取り上げているが、この集団は実は樺太アイヌの別派と見るべきとの説が大井晴男より出されており、本記事では取り上げない。また、北海道島内には以上の集団の他にも、大小様々な多数のアイヌ集団が存在していたと考えられるが、未だ明らかになっていない点が多い。


内浦アイヌ(うちうらアイヌ)は、17世紀北海道内浦湾(噴火湾)西岸の渡島半島側一帯に居住していたアイヌ民族集団の一つ。「内浦アイヌ」という名称は歴史学者の海保嶺夫による命名であり、アイヌ民族自身による自称は記録されていない。ただし、18世紀に北海道全域を踏破した蝦夷通辞上原熊次郎は、内浦湾西部にホレバシウンクルウシケシュンクルと呼ばれる集団がいたことを記録しており、これらの集団が内浦アイヌの後裔ではないかと見られる。

概要

シャクシャイン時代の北海道。紫色の領域が内浦アイヌの居住域。

津軽一統志』にはシャクシャインの戦いが起こった頃、内浦湾西部(現在の尻岸内から長万部一帯)は惣乙名アイコウインの「持分」であったと記されており、この領域が「内浦アイヌ」の居住地域であったと考えられている[1]。ただし、『寛文拾年狄蜂起集書』の記述によると、この頃の内浦湾西部(白老以西)は非常に空屋が多く、シュムクルメナシクルイシカルンクルといった大勢力に比べ、その勢力は小規模であった[2]

同じく『寛文拾年狄蜂起集書』によると、シャクシャインの戦いにおいてアイコウインは表面上松前藩に従っていたが、シャクシャインが松前藩に対して勝利を収めた時にはこれに合流する予定であったという。そのためアイコウインは密かに道東のメナシクル(「奥下」)と連絡を取り、松前藩に対してスパイも放っていた。しかし、クンヌイ(国縫)の戦いでシャクシャイン軍が敗れたことによってアイコウインの意図は挫かれ、内浦アイヌが松前藩に対して公然と叛旗を翻すことはついになかった[3]

シャクシャインの戦い後の内浦アイヌについては不明な点が多いが、18世紀に北海道を探検した上原熊次郎は次のような記録を残している。

扠又、当所(静内)よりポロイヅミ辺までの蝦夷をまとめてメナシウンクルといふ。……ヲシャマンベ(長万部)よりモリ()辺迄の蝦夷をウシケシュンクルといふ。則、湾の末のものといふ事。シカベ(鹿部)よりトイ(戸井)辺迄の蝦夷をホレバシウンクルといふ。則、沖のものといふ事。…… — 上原熊次郎『蝦夷地名考并里程記』

この記述から、かつてアイコウインによって統率されていた内浦アイヌは、18世紀にはウシケシュンクル・ホレバシウンクルという集団としてアイヌ民族の間では認識されていたことがわかる。


シュムクル(スムンクル、アイヌ語: sum-un-kur)とは、胆振から日高北部にかけての太平洋沿岸地域に居住するアイヌ民族集団の名称。17世紀には東で接するメナシクルと抗争を繰り広げたことで知られるが、その指し示す範囲については諸説ある。

その本拠地(沙流郡波恵村)から、ハエクル(ハイクル,アイヌ語: hay-kur)サルンクル(アイヌ語: sar-un-kur)という名称でも知られる[注 1]

シャクシャイン時代の北海道

アイヌ語で「西の人」の意である[3][4][5]。「スム[・レラ]」は本来「西風」を意味する単語で、太平洋岸のアイヌが河川を境として西風が吹いてくる方角(=西)を「スム(シュム)」と呼んだことから、転じて「西」を意味する名詞となった[6]

「スム(シュム)」という言葉は日高東部や道東一帯の地名において多く用いられており、本来は広域を指す名称ではなかった。シャクシャインの戦いの頃は首長オニビシに率いられた「ハエクル(ハイクル)」という集団がおり、これが後のシュムクルに繋がる集団であると見られる[注 2]

松前矩広による『正徳五年松前志摩守差出候書付』(1715年)では、アイヌの集団の一つとして「シモクル」をあげ、アイヌ語で「西衆」を意味するとしている[7]。蝦夷通辞の上原熊次郎は、著書『蝦夷地名考并里程記』における「シビチヤリ」の項において、「ニイガプよりシラヲイ辺まての蝦夷をシユムンクルといふ」としており、名称について「西のもの」という意味であるとしている[8]。この記述によると、新冠から白老周辺にかけての太平洋沿岸地域がシュムクルの居住範囲ということになる。

アイヌが土葬墓に立てるクワ(墓標)には地域ごとに違いがある。各地の墓標を調査した河野広道によると、当時静内から千歳室蘭にかけての一帯にサルンクル型[注 3]の墓標が分布していた。東端の静内ではメナシクル型の墓標と混在しており、また室蘭より西の有珠においてもサルンクル型の墓標が混在していた。男性の墓標は矢尻のような形状であり、また女性の墓標は上部に穴があけられ、針の頭のような形をした太い木であるという。またサルンクルについて、墓制のほか伝承や風習の面でも隣接するアイヌ集団と大きく異なる特徴を持つとしている[9]

歴史

10世紀以後、北海道太平洋沿岸地域にはカムチャッカ半島千島列島に繋がる「太平洋交易集団」が成立しており、和人からは「東の方角の者」の意で「日の本」と呼称された。この「太平洋交易集団」の一部がシュムクルの先祖になったと見られる[10]

シュムクルは「祖先は本州から移住してきた」という他のどのアイヌも持たない独自の始祖伝承を有しており、本州から移住してきた奥羽アイヌを核として成立した集団ではないかと考えられている[11]

シュムクルは次第に東で接するメナシクルと対立するようになり、1653年にはハエクルの首長オニビシ[注 4]がメナシクル首長カモクタインを殺害するという事件が起こった。カモクタインの後を継いだシャクシャインはオニビシを殺害し、更に松前への攻撃を計画したが敗れ、謀殺された(シャクシャインの戦い)。

シャクシャインの戦い以後、場所請負制の下で松前藩によるアイヌ民族の統制は強化され、シュムクルもオニビシのような首長を生む余地はなくなった。近現代北海道においてアイヌ民族の人口密集率が高いのは胆振・日高地方であるが、これはシュムクルがメナシクル・石狩アイヌなどと比べ松前藩に友好的であったためではないか、とする説がある[12]


メナシクル(メナスンクル、メナシウンクル、アイヌ語: menas-un-kur)とは、静内以東の太平洋沿岸地域などに居住するアイヌ民族集団の名称。

シャクシャインの戦い」でシャクシャインが率いていた集団が「メナシクル」とされるが、その指す示す範囲については諸説ある。

定義

シャクシャイン時代のメナシクルの居住域[1]

「メナシ」の原義は「[東または南から吹く]強風」や「時化を呼ぶ風」などで[2]、太平洋沿岸地域のアイヌが河川を境として「東風の吹いてくる方角」を「メナシ」、その対岸を「スム」と呼んだ事から転じて、「メナシ」は「東」を意味するようになった。

「イシカリ(石狩)」や「ソウヤ(宗谷)」といった地名と違い、河より東をメナシ、西をスムと呼ぶのは道東で広く見られることで、「メナシ」は本来的には広範囲(道東一帯)を指す地名ではなかった。アイヌが「メナシ」という地域名を用いるようになったのは、和人による地域区分を逆輸入したためではないかとする説もある[3]

「メナシクル」の範囲について、『津軽一統志』は以下のように記す。

しふちゃり(静内)より奥狄罷有候所の覚:一、もんへつ(現捫別川流域[4])。一、ほろいつみ(幌泉)。一、とかち(十勝)。一、しらぬか(白糠)。一、くすり(釧路)。一、あっけし(厚岸)。右所々狄共メナクシクルの内にて、銘々居所を構、頭分に罷成有之由、此狄の分シャクシャインと一味仕、浦々へ着船の商人共を殺し申候由に御座候…… — 『津軽一統志』[5]

この記述から、シャクシャインの時代には日高の静内から釧路・厚岸に至るまでの広大な一帯が「メナシクル」の範囲であったと考えられている[6]。この「メナシクル」が一人の惣乙名(シャクシャイン)によって治められる政治的集合体であったとする説もあるが、近年ではシャクシャインの勢力はより限定されたものであったとする説もあり[7]、大井晴男は実際のシャクシャインの勢力圏は静内川・捫別川流域一帯に限られていたと想定する[8]

また、シャクシャインの戦いから約百年後、蝦夷通辞の上原熊次郎もメナシクルの分布について記述している。

扠又、当所(静内)よりポロイヅミ辺までの蝦夷をまとめてメナシウンクルといふ。則、東のものといふ事。ニイガプよりシラヲイ辺までの蝦夷をシュムンクルといふ。則、西のものといふ事。……ビロウ(広尾)より子モロ(根室)領辺迄の蝦夷をシメナシュンクルといふ。則、奥東のものといふ事…… — 上原熊次郎『蝦夷地名考并里程記』[9]

この記述によると、シャクシャイン時代のメナシクルは日高南部に居住する集団と十勝〜根室一帯に居住する集団に分かれており、前者を「メナシウンクル」、後者を「シメナシュンクル」と呼んでいたという。ここで言う「シメナシュンクル」の領域は和人が言う所の「道東」とほぼ一致する[10]

アイヌの墓標を調査した河野広道によると、当時静内以東の日高南部から釧路・網走にかけての一帯にメナシクル型の墓標が分布していた。男性の墓標はほとんどがY字型の股木であるが、女性の墓標は地域によって二分される。十勝では上の方にくびれのある太い木となっており旭川のものに近い形状であるのに対し、日高や釧路・網走では丁字型の木であり、内浦湾沿岸や石狩湾周辺のものに近い形状である[11]

また、考古学的には「メナシクル」の領域にのみ「砦」としての性格を持つチャシが発見されている。これはメナシクルが日高山脈以西より遅れてアイヌ文化を受容した集団を母体としており、後に「アイヌ化」する過程で交易を巡って抗争が起こったためとする説がある[12]

歴史

シャクシャイン時代の北海道

史料上に始めて「メナシ」という単語が登場するのは17世紀初頭のことで、1618年のアンジェリスの報告には以下のようにある。

毎年東部の方にあるメナシの国から松前へ百艘の舟が、乾燥した鮭とエスパーニャのアレンカに当たるニシンという魚を積んできます。多量の貂の皮をも持って来ますが、彼等はそれを猟虎皮といい、我が[ヨーロッパの]貂に似ています…… — アンジェリス『第一蝦夷報告』[13]

また、『新羅之記録』には1615年に「東隅」のニシケラアイヌが松前にやってきたことが記録されているが、この「東隅」は「メナシ」を意訳したものではないかと見られている。盛岡藩の『雑書』には、1644年にメナシ(原文では「目無」ないしは「妻無」と表記)のアイヌが交易のため田名部に来たことが記録されている[14]寛文2年(1662年)に刊行された『新改日本国大絵図』(扶桑国之図)では、「ゑぞのちしま」の地名として「めなしふろ」(原文ママ)が記載されており、メナシクルのこととされる[15]1654年頃の刊行とされる『日本国之図』にも、同様に「めなしふろ」の記載が見える[16]

16世紀半ばからは西隣のハエクル(シュムクル)との勢力争いが激化し、1653年にはメナシクルの惣乙名カモクタインがハエクルの惣乙名オニビシに討たれるという事件が起こった。両者の争いは一時松前藩の仲介によって収められたものの後に再燃し、やがてオニビシがカモクタインの後を継いだシャクシャインに討たれるに至った。続いてシャクシャインは松前藩打倒のため松前まで進軍した(シャクシャインの戦い)が敗れ、シャクシャインは謀殺された[17]

シャクシャインの戦い以後松前藩によるメナシクルの統制はより一層進み、それまで松前藩の力が及んでいなかった根室以東の地域も影響下に入った。1789年にはこのような北海道東端・国後島に居住するメナシクルがクナシリ・メナシの戦いを起こしたが、これも松前藩によって鎮圧された。

松前矩広による『正徳五年松前志摩守差出候書付』(1715年)では、アイヌの集団の一つとしてメナシクルをあげ、アイヌ語で「東衆」の意であるとしている[18]


レブンモシリウンクル
樺太アイヌ
(からふとアイヌ、アイヌ語: repunmosir-un-kuru)あるいはサハリンアイヌ英語: Sakhalin Ainu)とは、かつて樺太南部に居住していたアイヌ系民族である。

トンコリミイラ作りに代表される、北海道アイヌや千島アイヌとは異なる文化・伝統を有することで知られる。1945年ソ連による樺太占領によって大多数の樺太アイヌは樺太を離れ、以後は北海道各所に散在している。

定義

樺太と周辺の地形

「樺太アイヌ」または「サハリンアイヌ」の名前で知られているものの、実際には樺太全域に居住していたわけではなく、特に樺太南部に集中して居住していた。これは樺太アイヌの祖先が先住民(オホーツク文化人ニヴフ)を押しのける形で北海道から樺太へ進出していった歴史が関係していると考えられる。13世紀から近代に至るまで、樺太では樺太アイヌ、ウィルタ(アイヌからの呼称はオロッコ)、ニヴフ(アイヌからの呼称はスメレンクル)の3民族が共存していた。

また、樺太アイヌは前近代には北海道日本海沿海部にも居住していた形跡がある。河野広道の調査によると近代においても樺太アイヌと余市アイヌは墓標の形が同じであり、これは両者が同一の文化圏に属するグループに属することを示唆する。17世紀、シャクシャインの時代には余市・天塩利尻宗谷にかけてハチロウエモンらに率いられるアイヌ民族グループ(研究者はこれを「余市アイヌ」と呼称する)が存在したが、これも樺太アイヌに連なる集団ではないかと考えられている。

また、北海道アイヌによる樺太アイヌ認識について、蝦夷通辞の上原熊次郎は以下のような記述を残している。

扠又、当所(静内)よりポロイヅミ(襟裳)辺までの蝦夷をまとめてメナシウンクルといふ。則、東のものといふ事。……北蝦夷地(樺太)、其外嶋々の夷人をレブンモシリウンクルといふ。則、離島のものといふ事なり……。— 上原熊次郎『蝦夷地名考并里程記』

この記述によると、北海道アイヌは樺太を中心として周辺の島々(礼文島利尻島)に居住する者達を「レブンモシリウンクル(アイヌ語: repunmosir-un-kuru)」と呼ばれる一つのグループとして認識していたという。

歴史 近代以前

アイヌ文化が成立する13世紀以前、樺太・北海道東北部・千島にはオホーツク文化人が居住しており、日本からは粛慎(ミシハセ)、中国からは流鬼と呼称されていた。

13世紀モンゴル帝国(後、大元ウルス)が勃興すると、アムール河河口付近に居住する「吉里迷」(ギレミ、オホーツク文化人に相当すると見られる)を従えるようになった。1264年にはギレミの民が「骨嵬(クイ)」や「亦里于(イリウ)」が攻めてくるとセチェン・カーン(世祖クビライ)に訴えたため、モンゴルは軍勢を樺太に派遣し、骨嵬(=アイヌ)を討伐した。この頃樺太に進出したアイヌ系集団が樺太アイヌの祖先になったと考えられている。

江戸時代、樺太アイヌはアムール河流域の諸民族と交易を行い(山丹交易)、樺太アイヌがもたらす蝦夷錦などの物品はアイヌ社会・和人社会双方で珍重された。

19世紀以降[編集]

江別市対雁の樺太アイヌ慰霊碑
石狩市八幡墓地の樺太アイヌの碑

1875年(明治8年)、日露間で千島・樺太交換条約が結ばれ、樺太アイヌと千島アイヌは3年の経過措置の後に居住地の国民とされることになった[1]開拓使の長官黒田清隆は樺太アイヌを北海道に集団移住させることを決め、判官の松本十郎を現地に派遣した[1]。一応は移住希望者の募集が行われたものの、アイヌ側の反発は強く、「故郷の島影が見える宗谷ならば」という形で妥協したというのが実態のようである[1]。当時の南樺太に在住していた先住民族は、アイヌを主体に2372人だったが、そのうち108戸841人の樺太アイヌが宗谷へと移住した[1]

ところが翌1876年(明治9年)、黒田は樺太アイヌを対雁(ついしかり。現在の江別市。石狩川と旧豊平川の合流点付近)に再移住させるよう部下に命じた[2]。「宗谷ならば」という条件でアイヌ内部を取りまとめていた首長は突然の裏切りに憤死し、残った人々は銃で脅されながら強制移住させられたという[2]。後からこの顛末を聞き知った松本は激怒し、開拓使の職を辞して二度と戻らなかった[2]

対雁の樺太アイヌは政府から農業指導を受けたが、もともと漁業で生活していただけに収穫は芳しくなく、開拓使の保護政策も成果を挙げられなかった[3]。男たちはあくまで漁業で生きるため、春には厚田ニシン漁、秋には石狩サケ漁へと出稼ぎをするようになった[3]

1879年(明治12年)、日本全国でコレラが発生。対雁の樺太アイヌのうち74名が感染し、30名が死亡した[3]1882年(明治15年)、保護政策が打ち切りとなったため、アイヌたちは「対雁移民組合」を設立する[4]1886年(明治19年)から1887年(明治20年)にかけて、またもコレラと天然痘が大流行。対雁のアイヌのうち300名が犠牲となった[5]。生存者たちの多くは石狩の来札へと移住し、組合事務所も移転したが[5]1892年(明治25年)から3年間も不漁が続き、資金の損失により組合の事業を縮小せざるを得なくなった[6]

ポーツマス条約によって南樺太が日本領となった翌年の1906年(明治39年)8月、樺太アイヌの大多数は故郷へと帰還することとなった[7]。内訳は帰島する者339名、北海道に残る者12名、行方不明者15名で、その人口は実に半数以下に減少していた[7]

1945年(昭和20年)にはソビエト連邦によって南樺太は占領され、これに伴い多くの樺太アイヌが北海道へと移住した。

文化

音楽

樺太アイヌ独自の楽器として、トンコリという弦楽器がよく知られている。現在では樺太アイヌのみならず、北海道アイヌや和人の間でもトンコリを用いた演奏がなされるようになっている。

住居

青森県三内丸山遺跡に復元された、縄文時代の土葺き竪穴式住居。樺太アイヌの竪穴住居は、これに煙突をつけた形式である

樺太アイヌは他のアイヌ民族グループと異なり、夏期用の家「サㇵチセ(sahcise=夏の家)」と冬期用の家「トイチセ(toycise=土の家)」を持つことで知られる。

冬期用のトイチセとは竪穴住居のことで、松田伝十郎の『北夷談』や間宮林蔵の『北蝦夷図説』などにも記載がある。屋内には囲炉裏と共にカマドがあり、樹皮で葺いた上に土を盛った屋根には煙突がつき出している。だがトイチセの居住環境は通気などの関係で劣悪なため時代を経る毎に使われなくなってゆき、20世紀にはより寒冷な北部の集落でしか用いられなくなっていた[8]

夏期用のサㇵチセは樹皮、特にエゾマツ (sunku) を用いて屋根を葺いていた[9]

衣服

樺太東海岸のアイ集落の長・バフンケ(日本語名・木村愛吉 1855〜1919?)。衣服のアイヌ文様は、北海道アイヌとは微妙な違いがある

樺太の気候は北海道に比べ寒冷なため、衣服の材料はイラクサの繊維か、獣皮を鞣したものを用いていた。最も多く用いられたのはトナカイ(アイヌ語:tunakay)やジャコウジカ(アイヌ語: opokay)の皮で、ほかにイトウアメマスなどの魚皮を用いることもあった。ただし熊と山猫の皮は決して使われることがなく、またアザラシ(アイヌ語:tukari)の皮で作った着物は「神衣(アイヌ語:kamuy-rus)」と呼ばれた。

晴れ着はsiwh-imi/siyuh-imiと呼ばれ、肩に文様を入れるのが常であった。樺太アイヌの間でtah-ru-kor-imi(肩に文様を持つ着物)と言えば晴れ着か、日常着でも上等のものを指していた[10]


千島アイヌ(クリルアイヌ)
Chishima Ainu people (from a book published in 1901).png
千島アイヌの男性・女性
言語
千島アイヌ語ロシア語日本語
宗教
自然崇拝ロシア正教会
関連する民族
北海道アイヌ樺太アイヌイテリメン

千島アイヌ(ちしまアイヌ、アイヌ語: Ruru-tom-un-kuru英語: Kuril Ainu)とは、かつて千島列島北部の新知郡占守郡カムチャツカ半島南端に居住していたアイヌ民族の一派である。北海道アイヌ樺太アイヌとは異なる文化・伝統を有することで知られていたが、両国間で締結された千島・樺太交換条約締結後の移住によって人口が激減し、現在では千島アイヌの文化は断絶してしまっている。

欧米ではクリルアイヌ、あるいは単にクリル人とも呼称される。

定義

千島列島(英名)

「千島アイヌ」あるいは「クリルアイヌ」の名前で知られているものの、厳密に言うと北方領土エトロフ島クナシリ島等)のアイヌは北海道本島のアイヌと同系統とされ、通常「千島アイヌ」は、シムシル島からカムチャツカ半島南端にルーツを持つアイヌを指していることが多い。

ウルップ–シムシル島間の北得撫水道を境にしてアイヌ民族の文化伝統が異なる事は古くから知られており、近藤重蔵は『辺要分界図考』(1804年)で以下のように述べている。

東海ウルップ島より前路、シモシリ島(新知島)よりカムサスカ(カムチャツカ)地方に至る迄凡十余島、世の所謂千島にして蝦夷人之を称してチュプカと云。チュプカとは日出処の義也。蛮書に之をクリル諸島と云。その島大なる者十六、小なる者無数……。— 近藤重蔵『辺要分界図考』巻四

同様に、蝦夷通辞の上原熊次郎は以下のような記述を残している。

扠又、当所(静内)よりポロイヅミ(襟裳)辺までの蝦夷をまとめてメナシウンクルといふ。則、東のものといふ事。……ビロウ(広尾)より子モロ(根室)領辺迄の蝦夷をシメナシュンクルといふ。則、奥東のものといふ事。エトロフより奥の嶋のものをチウブカンクルといふ。則、日の方のものといふ事……。— 上原熊次郎『蝦夷地名考并里程記』[1]

以上の記述をあわせると、北海道アイヌの間ではエトロフ島・シコタン島といった北方四島のアイヌは道東一帯のアイヌと同じグループに分類されており、それ以北のグループがチュプカウンクル(アイヌ語:cupka-un-kur)と呼ばれていたという。ここで言う「チュプカ」とは、「日・の上(=太陽の上がる方向、東)」を意味するアイヌ語cup-kaのことである[2]

また、1899年鳥居龍蔵の調査によると、千島アイヌは自身のことを「ルートンモングル(ruton-mon-guru,「西に住まえる人」の意)」、北海道アイヌのことを「ヤムグル(yamu-guru,「南方の人」の意)」、カムチャダールのことを「チュプカウングル(cupka-an-guru,「東方の人」の意)」と呼称しており、ここでも「ルートン(ruton)」はウルップ島〜シュムシュ島の千島北部のみを指すものとされている[3]。これらの呼称はより正確には「ルルトムンクル(アイヌ語: ruru-tom-un-kuru,「海中の人」の意)」あるいは「ルットムンクル(アイヌ語: ruttom-un-kuru,「島嶼の住人」の意)」、「ヤウンクル(アイヌ語: ya-un-kuru,「本土の人」の意)」を聞き取ったものと見られている[4]

なお、カムチャツカ半島南部(ロパートカ岬一帯)にはアイヌ語地名がいくつか残っており、カムチャツカ半島南部も千島アイヌの居住圏であったと見られている[5]

歴史

千島アイヌの若者たち(1899年)

千島アイヌの成立は北海道アイヌ・樺太アイヌと比較して遅く、15世紀以後のことと考えられている。これはアイヌ民族以前に千島列島に居住していたオホーツク文化人を漸次同化・征服していったためである。

千島アイヌの産出するラッコ皮は他の地域では得られない稀少品であり、古くから交易によって和人社会にもたらされていた。

一方、千島アイヌは道東アイヌの漁場であったウルップ島で沈黙交易をおこない、直接和人と交易を行わなかったこともあって、江戸時代末期に至るまで千島アイヌに関して和人社会ではほとんど知られていなかった。16-17世紀頃の日本では千島方面を漠然と「クルミセ」あるいは「ラッコ島」と呼ぶのみで、千島に関する知識は主に北海道アイヌを介した伝聞に拠っていた。

17世紀末、カムチャッカ半島にまで進出していたロシア人は、18世紀初頭より千島列島に足を踏み入れるようになった。1711年アンツィフェーロフ率いるコサックは始めて千島列島に進出し、これ以後千島アイヌはロシア人より毛皮税(ヤサーク)を取り立てられるようになった。

19世紀に入ると、蝦夷地箱館奉行の管轄する幕府直轄領とした日本と南下政策をすすめるロシアの間で、千島方面における国境画定が問題化してきた。両国の国境確定は明治維新を経た後、1875年の千島・樺太交換条約によって一応の決着を見た。この結果、千島アイヌは3年以内に日露どちらかの国籍を選択することを迫られた。

当時国力の乏しかった日本政府は、長大な千島列島の末端への生活物資の補給が大変困難であり、また千島アイヌもロシア化されており国防上の懸念もあることから、根室県の役人が占守島の全住民を説得し色丹島に移住させた(『千島巡航日記』)[6]。しかし、生活環境の変化は大きく慣れない生活と風土のため、千島アイヌの人口は激減してしまった。更に、第二次世界大戦ソ連が千島列島や北方領土を占領すると、ソ連によって追放された千島アイヌ及びその血縁者は日本各地に移住したため、千島アイヌ文化の伝統は途絶えてしまった。一方、ロシアへの移住を余儀なくされたアイヌについてはロシアにおけるアイヌの項も参照。

1962年村崎恭子が北海道にいた千島アイヌの生き残り及び和人とのハーフ4人から聞き取り調査を行ったが、完全に同化していたうえ、うち二人(夫婦)はもともと使っていなかったこともあり千島アイヌ語は話せない状態だった。他の最年長の女性二人は本土に渡った後、夫に虐待されるなど辛い生活を送ったためか村崎と話さえしようとしなかった。このため、翌年に村崎は千島アイヌ語の話者が絶えたことを報告した[7]

現在、千島アイヌとしての文化的アイデンティティを保持する者は既に存在しないと考えられている[8]

文化

住居

千島アイヌの竪穴住居

千島アイヌ文化が北海道アイヌ文化と異なる点としてよく挙げられるのが、竪穴住居での生活である。竪穴住居を作る際には、まず長方形の穴を掘った後に柱を立て、板で囲い、急勾配の屋根をつくる。その後、煙出し用の穴を残して干し草・土・泥炭などで蔽い、窓や入り口を整えて完成させた。窓ガラス代わりに海獣の膀胱を広げたものを窓に貼っていたため、室内はとても暗かったという。

ロシア人の進出後、千島アイヌの住居で最も大きく変わったのは風呂を作るようになったことであった。この風呂はロシアの蒸し風呂(バーニャ)をまねたもので、熱した石に水をかけることで蒸気を出す、というものであった[9]

衣服

作業中の千島アイヌ

近藤重蔵の記録によると、千島アイヌには羽毛(アイヌ語: rap-ur)、犬の皮(アイヌ語: seta-ur)、草を編んだもの(アイヌ語: kera)などを材料とした衣服が存在したという。また、ウシシルのアイヌは雁の羽にアザラシの皮で縁取った筒袖仕立ての衣服を着ていたという。keraはキナという草を用いて作るが、北海道アイヌの作るアットゥシ(attus)のような樹皮由来の繊維で織られた衣服は、材料となるオヒョウダモが北千島で育たないため、作られない[10]。靴としては耐水性の高いトドあるいはアザラシの皮を用いて作った長靴を使っており、冬期には柳で作ったをつけていたという。

以上のような千島アイヌの衣服は18世紀以後かなりロシア化し、ロシア製のシャツや帽子、用いるようになったという[11]

生活用具

北海道アイヌ・樺太アイヌには見られない千島アイヌ独自の特徴として、遅くとも19世紀前半まで土器作りの文化を保持していたことが挙げられる。しかし、このような文化はロシア人の進出とともに少しずつ廃れてゆき、ロシア製の用具を用いるようになっていった。

千島アイヌを代表する物質文化として、「テンキ」と呼ばれるバスケットが存在する。これはテンキ草(ハマニンニク)を材料に巻き上げ技法(コイリング技法)を用いて作成したもので、アメリカ北西海岸のネイティブアメリカンとも共通する文化である。また、北海道アイヌには人形や仮面を作る文化がない一方、千島アイヌは木製仮面を有していたことが知られているが、これもまたアラスカ・アリューシャン・カムチャッカの北方民族の影響を受けた文化であると考えられている[12]

沈黙交易

千島アイヌはウルップ島までおもむき、道東アイヌ沈黙交易をおこなった。当時のウルップ島は道東アイヌの漁場となっていた。沈黙交易の項も参照されたい。

言語

千島アイヌ語についての資料は断片的なものしか残されておらず、その実態には未だ謎が多い。

しかし、クラシェニンニコフは「クナシリ[島]住民の言語は第2島ポロムシル島(幌筵島)で話される言語とほとんど何らの相違もない」というクリル人(アイヌ)の発言を記録しており、国後島を含むをアイヌ語南千島方言と類似した言語であった可能性がある[13]

コロポックル伝説と千島アイヌ

コロポックルの木彫り人形

アイヌ民族伝承の一つとして知られるコロポックㇽ伝説のモチーフが千島アイヌであった、とする説が存在する。

一般的に「アイヌ民族の小人伝承」と言うと「蕗の葉の下の人(korpokkur)」が想像されるが、実は前近代の記録にはアイヌ民族の伝える小人を「トイチセコッチャカムイ(トイコイカムイ、トイチセウンクルとも。竪穴住居に住む人、の意)」或いは「クルムセ(千島の人、の意)」という名称でも記録していた[14]

例えば、17世紀の『勢州船北海漂着記』には以下のように記録されている。

蝦夷人物語申し候は、小人島より蝦夷へたびたび土を盗み参り候、おどし候へば、そのまま隠れ、船共々見え申さず候由、蝦夷より小人島まで、船路百里も御座候由、右の土を盗みて鍋にいたし候由、もつともせいちいさくして、小人島には鷲多く御座候て、……。— 松阪七郎兵衛ほか『勢州船北海漂着記』(1662年)[15]

この記述に見られるような、古い時代に記録された小人の特徴を列挙すると、

  1. 小人と北海道アイヌはコミュニケーションを欠く(=両者は沈黙交易を行う)
  2. 小人は土鍋製作用の土を取って帰る(=小人は土器製作を行う)
  3. 小人の島にはオオワシが多い
  4. 小人は島に住む、船でやってくる

となり、これらの特徴は全て千島アイヌの特徴と一致する[16]

更に注目されるのは、樺太アイヌ・北海道アイヌ・南千島アイヌといったほぼ全ての地域で伝承される「小人伝説」が、唯一千島アイヌの間でのみ知られていないという点である[17]

以上の点を踏まえて、考古学者の瀬川拓郎はアイヌの小人伝説について「……15世紀に北千島へ進出したアイヌは、その奇妙な習俗によって異人され、15〜16世紀には道東アイヌのあいだで小人として語られることになった」のであり、「19世紀ころには、様々なモティーフを取り込み、他の伝説とも融合して、もはや北千島アイヌの現実の習俗を反映した伝説であったとは思われないほど、小人伝説はアイヌ世界の物語として『成長』を遂げていた」と纏めている[18]


博物館などアイヌ民族関連施
(このサイト)


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